bogomil's CD collection: 040

年末には第9をやめて《レクイエム》を

Mozart: "Requiem"

 年末にベートーヴェンの交響曲第9番を演奏する。いつのまにか定着してしまった。この交響曲、少なくとも1〜3楽章がすぐれた音楽であることは間違いない。問題は第4楽章だ。

 まず第1〜3楽章を回想して否定する、というような手法がわざとらしい。わざわざ伝記的資料を調べなくても、シラーの詩による音楽とニ短調交響曲がもともと別個に構想されていたということがこのことからわかってしまう。いかにも取ってつけたよう手段で第1〜3楽章と第4楽章を関連付けようとしているところは不自然。これは聞かれもしないのに自分からあれこれ弁解して悪事がバレてしまうようなもの。「1〜3楽章と4楽章は有機的に関連している」などという評論をベートーヴェンが読んだら、きっと内心ほっとすることだろう。

 例の「歓喜の主題」は趣味の問題で、とやかくいうべきものではないが、展開の仕方はやはりくどい。男声の独唱はつっぱったようで息苦しいし、重唱の部分は器楽的で「歌曲」としての魅力がほとんど感じられない。

 さてわが国における年末の第9、オケと独唱はプロ、合唱はアマチュア、あるいはアマチュアもどきの音大生という組み合わせが多いようだが、ヘタクソなソロや合唱を聴かされるともう腹が立つのを通り越して笑ってしまう。ひとくちにアマチュアの合唱団といっても実力はまちまち。で第9の合唱パートは結構むづかしいし、ソプラノとテノールは音が高いから、きちんと発声の訓練を受けなければまともに歌うのは無理である。

 だからしばしば聴くに耐えない響きが生まれる。特に高音で声がひっくりかえる男声には耳をおおいたくなる。たとえば第4楽章606小節の"Millionen!"のバスとテノール。アマチュアの男性では高い「ミ」は苦しい。しかもここはフォルティッシモだから、みなさん一生懸命だが結果的には「がなっている」としかいいようのない、すさまじいユニゾンが出現する。この後出てくるソプラノの高い「ラ」の連続もすさまじい。歌というより悲鳴だ。

 つまるところ第9の第4楽章は日本のアマチュアには無理。なぜ、こんなに苦労してまで、歌いにくいこの曲をアマチュアが歌わなくてはならないのだろう。ウサばらし、ストレス解消の効果はあるかもしれない。男性ががなりまくり、女性が叫びまくる、というのは普通はなかなかできないが、第9の舞台ならやりたい放題。数百人の合唱なら、ひとりだけ大声で別の曲を歌っていても周囲の声とオケの音に紛れてわからないだろう。いやおそらくクライマックスでは自分の声さえ、まともに聴こえないだろう。

 さてこの第9、シラーの詩の面から見ても作曲時のいきさつから見ても、年末に演奏する必然性はない。一部では経済的に恵まれない日本のオーケストラ団員の年末ボーナスのためともいわれているが、結果的にそうなったとしてもこれが「理由」とは考えにくい。日本だけ、といわれる「年末の第9」は意味不明で異常な現象といっていいだろう。

 第4楽章のシラーの詩にしたところで、どれほどの意味があるのか。「人類はみな兄弟」などという観念的で具体性のないスローガンにどこまで現代的な意味があるのか。筆者としてはこのシラーの詩に大した意味を見いだすことはできない。

 そこで年末に合唱をやりたい、という人たちのために、また念のため「年末ボーナス説」にも配慮してオケのために代案を提案しよう。曲はモーツァルトの《レクイエム》KV626[注1]。名目は12月8日の開戦記念。いわゆる真珠湾(パール・ハーバー)奇襲攻撃の日だが、もちろん緒戦の勝利を祝おうというのではない。

 この日、アメリカ、イギリス、オランダを敵にまわすことによって、日本は決定的に全面戦争に突入した。それ以前に中国大陸では既に戦闘状態に入っていたが、まだ限定戦争にとどめておく道は残されていたかもしれない。しか、12月8日以降は、さらにフィリピンやインドネシアなどアジア各地に軍が侵攻し、もう後にはひけなくなってしまった。

 「アメリカ、イギリス、オランダなどの圧力によって、戦争せざるを得ない状勢に追い込まれたのだ」という見方もあるが、たとえ挑発されたにせよ「先に手を出してしまった」事実は否定できない。この戦争については毎年8月15日の前後にいろいろ取り上げられるが、どうしてもヒロシマの原爆とか、東京大空襲とか、残留孤児とか、戦争末期に日本の受けた被害の面が中心で、日本の軍隊とそれを「銃後」で支援した日本の国民が加害者であったことはあまり前面に出てこない。

 8月15日前後に、ヒロシマや東京大空襲について考えることは大切なことだ。しかし同様に、あるいはそれ以上に、12月8日になぜ日本が戦争に突入したかを振り返り、その前後にアジア諸地域で何をしたかをきっちり見つめ直すことも必要だろう。

 そのような反省の一環として、もしどうしても年末に合唱付きの大曲を演奏したいというのなら、日本人の戦没者だけのためではなく、この戦争で犠牲となったすべての人たちの鎮魂を目的として、《レクイエム》を歌うことを提唱したい。意味もわからずに、またわかったとしても大して意味のない第9をただ単に「年末の恒例だから」という理由で歌うよりは、多少なりとも意義ある音楽会になるだろう[注2]。


Discography:

(1) Mozart: Requiem /Karajan (Gramophon 429 160-2)

(2) モーツァルト:レクイエム ニ短調 カラヤン/ウィーン・フィル

  (ポリドールPOCG-1203/Gramophon 419 610-2)

(3) Mozart/ Requiem KV626 / Koopman (Erato 2292-45472-2)

 (1)は筆者が最初に聴いたもの。カラヤン/ベルリン・フィルによる(1962)。(2)は同じくカラヤン指揮だが、ウィーン・フィルとのもの(1986)。(3)は古楽器オーケストラによるもので、ライブ録音(1989)。重厚さを好むなら(1)、(2)だが、(3)にも、また違ったよさがある。


注1:

 もちろん、フォーレ、デュリュフレの《レクイエム》でもいいし、演奏できるならリゲティの《レクイエム》でもいい。もっとシンプルに行くならルネサンス・ポリフォニー(たとえばビクトリア)やグレゴリオ聖歌の《レクイエム》という手もあるが、オケがあぶれてしまう。

注2:

 わが国で第9が好んで演奏される理由のひとつには、キリスト教色が希薄なことが挙げられる。第9の歌詞なら仏教徒でも歌えるだろうが、《メサイア》や《レクイエム》となると、仏教系教育機関や公的機関には抵抗があるかもしれない。


【追 記】

 2002年10月21日、ベルリン在住のフリーデマン・ホッテンバッハー氏の取材(インタビューのビデオ撮影を含む)を受けた。氏はドイツ・オーストリアで放送されているZDF系のニュース番組で日本の第9を取り上げるために来日したのだが、事前のリサーチでこのページのエッセイを読み、関心を持ったとのことだった(氏は在日経験があり、日本語を理解する)。日本の年末の第9ラッシュはドイツ人には奇異に映ずるらしい。

 短いドキュメンタリーがまとめられ、2002年11月8日にZDF系列のニュース番組中で放送された。そこでは板東俘虜収容所での日本初の第9演奏会の話題などが取り上げられ、最後に「第9のスローガンは誰にも納得できるものなので、意見の統一を尊重する日本では好まれるのではないか」という筆者のコメントが付加されていた。

 その後、この番組のウェブページが制作され、最後に筆者のコメントの一部「(日本人は意見の一致を尊重するので)誰もシラーの理想論に反論することができない(という点が第9が愛好される理由だろう)」が引用されている。

Beethoven in Japan

91/10 last modified 04/06


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