bogomil's CD collection: 030

古くて新しい音
——シューベルト:即興曲集

Schubert: Impromptus

 バッハの「平均律」。最近では「平均律クラヴィア曲集」という呼び方が一般的になってきたようだが、かつては「平均律ピアノ曲集」という表記をよく見かけた。原題は《Das wohltemperierte Clavier》、ドイツ語だ。問題となる'Clavier' という語。「鍵盤楽器」という意味で現在のドイツ語ではピアノをさす(現在の綴りは 'Klavier'が一般的)。しかしバッハの時代にはまだピアノは普及しておらず、チェンバロ、クラヴィコード、ときとしてオルガンも含めた鍵盤楽器全体を'Clavier' と呼んでいたようだ。

 現在のピアノの原形はイタリアのクリストフォリが1700年頃に作ったものとされており、バッハの生前に既にピアノは存在していた。だがバッハは晩年に数回、ピアノを試奏した程度で、ピアノのための作品は書いていないというのが通説。バッハの作品では《音楽の捧げ物》BWV1079の中の3声のリチェルカーレが、唯一ピアノで即興演奏された、とする説はあるが確証されているわけではなく、「平均律」はチェンバロかクラヴィコード用と考えてよい[注1]。「平均律《ピアノ》曲集」というのは誤解を招く名称なのだ。

 したがって作曲家が意図した響きの再現を目的とするなら、バッハの鍵盤作品はピアノで演奏するべきではない、ということになるだろう。これは鍵盤作品に限らず、声楽曲や管弦楽曲にもいえる。たとえば《ブランデンブルグ協奏曲》を現代のフル・オーケストラで演奏するのは、やはり作曲家の意図からは外れる。

 しかし、1950年代頃までは、バッハは現代の楽器で現代の演奏スタイルで演奏するのが当たり前だったし、このような演奏は現在でもまだ存続している。誤解を恐れずに敢えていえば、ここにはある種の進化論的な発想がある。それは「ピアノはチェンバロよりも進化した楽器である」とか、「現代のオーケストラは、完成の域に達している」というような発想だ。

 逆にいうと「バッハの時代は、楽器がまだ未発達だった」という考え方。こういう立場から見ると、バッハを当時の楽器=歴史的楽器で演奏するのは単なる「懐古趣味」、「衒学趣味」であり、「鳴りの悪い貧弱な音で演奏している」ということになる。実際「歴史的正当性」に拘泥するあまり「音楽」としてはつまらなくなっている古楽演奏がないわけではない。

 しかし歴史的楽器を用いて、当時の演奏習慣に立脚して過去の作品を演奏するという姿勢は、楽器の「進化論」、さらには音楽そのものの「進化論」への批判であり、多様な音楽の在り方を認めるという柔軟性を具現化したもの。バッハの時代の楽器は決して「未完成」なものではない。現代の数千人規模のホールでの演奏に適さないからといって、「チェンバロはピアノに劣る」とはいえない。「優劣」ではなくて「個性の違い」として認識するべき問題なのだ。

 「イタリア協奏曲」、「ゴルトベルク」や「イギリス組曲」は2段鍵盤のチェンバロで、「インヴェンション」や「平均律」はチェンバロかクラヴィコードで弾くのがオリジナルの姿。古くはランドフスカ、ヴァルハ、リヒター、カークパトリック、レオンハルト、ダート。比較的新しいところではコープマン、ホグウッド、ピノック、ドレフュスなどの演奏がある。

 古典派以降のピアノ曲でも、現在のピアノで弾いたら、やはりオリジナルの姿とはいえない。モーツァルト、ベートーヴェンからシューベルト、シューマン、ショパン、ドビュッシーあたりまで、現在のピアノ(いわゆるスタインウエイ型)とはずいぶん異なる構造とアクション(したがって異なる音色)のピアノで演奏していたからだ。

 どんな音?たとえば、シューベルトの即興曲(作品90と142)。デーラーが1820年製のハンマーフリューゲルで弾いているCDを聴いてみよう(「シューベルト即興曲集」キングClaves K35Y10071)。現代のピアノを聴き慣れた耳には素朴でやわらかい音に感じられるだろう。高音はちょっとくすんでいて、低音はやや芯のある音だ。つまり音色が音域によって違うのである。このハンマーフリューゲルには手作りの木の感触があり、それがシューベルトの音楽の「まじめさ」にピッタリだ。

 次に1826年製のフォルテピアノで演奏されたショパンの「アンダンテ・スピアナート」(The Romantic Fortepiano. AMON RA RECORDS CD-SAR7)。左手と右手の音色の対比がすばらしい。現代のピアノでは冷たい、とりすました響き、たとえていえば大量生産のステンレス製の食器を思わせる響きになるが、この楽器では、ひとつひとつ手作りの銀の食器、それも適度に装飾の施された品のよい食器といった感じになる。

 18〜19世紀のピアノ作品は、作曲家が使っていた当時のピアノを復元して演奏する。おそらく、今後はこの原則が少しづつ広がっていくだろう。すでにチェンバロでは、モダン・チェンバロと、歴史的チェンバロが区別されているが、やがてピアノも同じように区別されるようになるだろう。そうなれば、ショパンの作品は彼が好んだプレイエルやエラールを復元したピアノで、本来の響きで演奏できるようになる。古い時代の楽器の音は、それを知らない私たちにとっては、かえって新鮮な「新しい音」なのだ[注2]。


[注1]バッハは、ガット弦を張ったチェンバロ(ラウテンクラフィーアLautenklavier)も所有していた伝えられる。これは特殊なものだが、チェンバロに分類してよいだろう。

[注2]筆者は、たとえばピアノ愛好家に対しては「チャンバロで弾くバッハをもっと聴きましょう」というが、古楽愛好家に対しては「ピアノで弾くバッハも聴くようにしましょう」ということにしている。これは御都合主義でいっているのではなく、「バランス感覚」と「多様性の認識」が重要だと考えているからだ。

 なにごとによらず、わが国では「広く浅く」よりも「狭く深く」が評価される傾向がある。「この道ひとすじ、ウン十年」が勲章だ。しかし度が過ぎれば「狭く、深く」は他の分野に関する無知から、専門分野の理解を独善的かつ自己撞着的なものにしてしまう危険がある。「木を見て森を見ない」状態だ。理想は「広く深く」だが、まあ、これは無理なので筆者としては「まず広く、次にできるだけ深く」ということを目標にしている。

89/6 last modified 04/3


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