bogomil's CD collection: 028

 「印象派の水の音楽」

 「印象派の水の音楽」。ちょっとオシャレな感じだが、これはあるCDのタイトルだ(DELOS D/CD 3006)。原題は"WaterMusic" of the Impressionists。1983年に発売されたもので、C.ローゼンバーガーがベーゼンドルファーのピアノを弾いている。このCD、文字どおり水に関する表題を持つピアノ曲を集めたもので以下の曲が収録されている。

 ラヴェルとドビュッシーの「オンディーヌ」というのは水の神あるいは水の精のことだから、これらの曲はすべて「水」に関連がある。特に最初の2曲と、ラヴェルの《水の戯れ》は噴水をテーマにしたもので、なるほどこの3曲を聴くと水の飛びはねる感じが非常によく表現されている・・・ように感じられる。

 しかし「ピアノの音で水を表現する」と簡単にいってしまってよいのだろうか。いったい音楽で何かを「表現する」というのはどういうことなのか。水の音を模倣するのか。いや水の音はピアノの音とは似ても似つかない。本当の水の音のレコードを聴いてみればわかる。

 ちょっと古いが、ここに《珊瑚礁と波の戯れ/小川と小鳥の会話》というLPがある。試しにこれを聴いてみよう。解説によればカリブ海ヴァージン諸島の小島の岸辺の波の音と、マサチューセッツ州ストックブリッジの森の小川のせせらぎだそうだが、ザルに入れたあずき豆をゆすっているような音と、トイレの水漏れのような音だ。ジャケットの写真を見なければ、とてもカリブ海やマサチューセッツを想像することはできない。しかしよく考えればこれは当然のこと。水というのは世界中、いや宇宙中どこへいってもH2O。単純な物質だから、その音もそれ自体は極めて単純なものだ。

 その水の音が私たちにとって好ましい印象を与えるとすれば、それはその音が象徴する、あるいは暗示する環境が好ましいからではないのか。カリブ海の波の音は、コバルト・ブルーの海と空、白い砂浜、熱い太陽の下で、サンタンローションを塗った肌にサラッとした潮風を受けつつ、日焼けした背中にちょっと刺激を感じながら聴いたときに初めてそれなりの意味を持つのだ。

 ストックブリッジの小川のせせらぎの音は、アメリカ東部の自然の中で、ニューイングランドの歴史的・文化的背景の中で初めて意味を持つのである。それを、ただ音だけ抜き出してほこりっぽい都会の、せせこましい部屋で聴いても何の感動もないのは当然だろう。

 環境ビデオというのがある。映像を見れば、多少はその場にいるかのような感覚を得られるということだ。アメリカではアパート・マンションの住人向けに、なんと暖炉のビデオが発売されたそうだ。最初から最後まで、燃えている暖炉が写っているだけなのだが、気分を落ち着かせる効果があるという。視覚的な情報はそれなりの強力な心理作用を持ち、聴覚的情報もまた、強力な心理作用を持つが、音の場合は自分が直接的に経験した範囲のことしかイメージできないような気がする。

 話がそれてしまった。水の音の話にもどろう。結論は単純明快。ラヴェルやドビュッシーは水の音を直接的にピアノで模倣しているのではない。もし彼らが何かを表現しているとすれば、それは水の音に触れた人間の「感覚」、噴水を眺めている人間の「印象」で、聴き手にそれらを喚起する音の組み合わせを、ピアノという楽器で実現することによって音楽を作っているということだろう。

 外界が直接、音に変換されているのではなく、外界→人間の感覚→ピアノの音、というふうに変換されていると考えるべきだ。だからおそらく、これらの音楽を聴いて「水」を想像できるのは人間だけだ。たとえば猫に「水」を想像させるとすれば、水の音→猫の感覚→ピアノの音、と変換していかなければならないから、モーリス・ニャベルや、クロード・ニャビュッシーに作曲してもらわなければダメである。自分で何を言っているのか、よくわからなくなってきた。猫の話が出たついでに、顔を洗う真似でもして、とぼけることにしよう。

89/4 last modified 02/6


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