bogomil's CD collection: 027

バッハ:インヴェンションとシンフォニア
(2)ピアノ編

Bach: Inventions and Sinfonias BWV 722〜801

 《インヴェンションとシンフォニア》BWV772〜801(以下「インヴェンション」)の目的については、バッハ自身が自筆譜(1723年)の序文の中で簡潔に述べている。バッハの意図は、演奏技術の教育と作曲教育に役立てることだったようだ。

 まず、演奏技術の面では独立した2声部を正しく扱うこと、そして次に独立した3声部を正しく扱うことが要求されている。これは簡単なようでむずかしい。2声の曲では、右手も左手もどちらも旋律=主題を担当しなければならず両手の独立した動きが要求される。3声の曲ではもっと大変だ。手は2つしかないが、これで3本の旋律を扱うのだから。特に内声を1本の旋律として演奏していくことは極めてむづかしい。バッハの要求はまだある。それは「カンタービレな奏法」を身に付けることだ。つまり、2声部、3声部のそれぞれの声部を歌うように演奏しなければならないのである。

 第二の目的は作曲に関するもの。バッハは、これらの曲が、すぐれた着想(インヴェンション)[注1]を得て、それを展開すること、および作曲の予備知識を得ることの手引である、と述べている。このためにインヴェンションは多様なのだ。

 ところで現代の私たちはこのバッハの意図を充分に理解しているだろうか。バイエルやブルグミューラーといった、右手が主、左手が従のスタイルで作られた音楽を練習させた後に、インヴェンションを生徒に与えることは適切だろうか。2声にせよ、3声にせよ、独立した旋律が重なっている、ということをどれだけ意識しているだろうか。それぞれの声部を歌っているか。声部ごとにフレーズを考えているか。楽譜に強弱記号や発想標語がないことをこれ幸いとばかり、無味乾燥で機械的な演奏でよし、としてはいないだろうか。

 インヴェンションは確かに初心者向けの曲であり、練習曲といっていい。しかしバイエルやハノンやツェルニーのエチュードのような練習曲とは同列に扱うべきではない。

 確かにインヴェンションを含めて、バッハのクラヴィーア作品は日本のピアノ教育において特異な位置を占めている。よく耳にする言葉に「エチュード」と「曲」というのがある。前者はチェルニー30、40、50番などメカニックな練習曲を指し、後者はベートーヴェンのソナタなどを指すようだ。ではバッハはどうか、というとバッハは「バッハ」なのである。「エチュード」でも「曲」でもないのだが、どちらかといえば指の訓練のための特殊な教材として用いられている。これはバッハの作品をピアノできちんと弾くのが極めてむずかしいからだろう(チェンバロでは、ずっと楽に弾ける)。

 主目的はショパンやリストを弾くことで、バッハをピアノで弾くことは、あくまでその目的を達成するための訓練なのだ。バッハの作品がピアノのリサイタルの最初に、いわば前座的に演奏されたりすることがその証左だ。そしてインヴェンションは前座的にでさえ、演奏されることはない。本来、芸術作品として演奏し鑑賞できるものを、単なる訓練の素材としてしか扱っていないとすれば、なんとももったいない話である。

 このような背景を考えながらピアノで演奏されたインヴェンションを聴いてみよう(カッコ内は録音年、CD番号)[注2]。

(1)グールド(1964) SONY RECORDS SRCR 9171

 ユニークなバッハ演奏の例として、広く聴かれてきたものだ(例によって、演奏者のハミングやうなり声、椅子のきしむ音が入っている)。特徴的なのは、2声ニ短調、3声ハ長調で聴かれるノン・レガート奏法。16分音符の音階をノン・レガートで弾くことのむずかしさは、ピアノを弾く人にはよくわかることだろう。

(2)ニコラーエワ(1977) ビクターVDC-1079 グールドとは違った意味で個性的な解釈だ。日本でのスタジオ録音で、音が鋭く捉えられている部分があり、好みがわかれるかもしれない。余談だがニコラーエワの手は、日本人の標準からしても小さかったという。

(3)シフ(1982) ポリドールPOCL-5099

 ホールでの録音らしく、響きがやわらかく雰囲気はいい。また解釈の面でも多くの工夫が聴かれる興味深い演奏だ。ただ、いかにも「音楽的」に弾きすぎている、という感じがしないでもない。

 バッハをどのように演奏するべきか。様々なアプローチがあるだろう。それはそれで個人の自由。ただし、どのような場合でも「音楽」として弾くべきで、メカニックの訓練のための練習曲として「無味乾燥」に弾くようなことがあってはならない。


[注1]"inventio(invenzio)"には、「発見」という意味があり、中世のキリスト教社会では特に「聖遺物の発見」という意味で用いられた。これはキリストが磔けにされた十字架のかけらとか、聖人の遺骨といったもので、霊験あらたかなものとされ、各教会は信者を集めるために競って「発見」に努めたという。渡邊昌美著『中世の奇蹟と幻想』(岩波新書98)に詳しい。バッハの時代にこの「聖遺物発見」のイメージがどの程度"inventio"という語に残存していたか、筆者は資料を持っていないが、こういった意味が多少なりとも残っていた可能性はある。ちなみに、この語を音楽の表題に使った例としては、イタリアのボンポルティの作品がある。

[注2]bcc26とbcc27で紹介したCDは1993年の時点で入手しやすかった国内版を挙げている。

93/09 last modified 02/6


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