bogomil's CD collection: 025

イタリア・オペラの人間模様(3)
——モンテヴェルディ:《オルフェオ》
Monteverdi:"L'Orfeo"

 《オルフェオ》はギリシャ神話[注1]を題材にしたもので、このモンテヴェルディの作品をはじめペーリとカッチーニの合作もあり、後にはグルック、ハイドンもオペラ化している。

 オルフェオは竪琴の名手。その歌は人々を魅了し、鳥や獣もその歌に聞き惚れ、硬い岩もやわらくなるほどだ。彼にはエウリディーチェという妻がいる。ある日、エウリディーチェは毒蛇に足を噛まれて死んでしまう。最愛の妻を失ったオルフェオは嘆き悲しむが、やがて意を決して、エウリディーチェを取り戻しに黄泉の国へ降りていく。

 黄泉の国に行くには川をわたらなければならない。日本でいえば三途の川だが、この川の渡し守カロンテは死者しか渡すことはできない、とオルフェオを拒む。そこでオルフェオは自慢の竪琴と歌でカロンテを説得しようとするが、なかなか上手くいかない。しかしカロンテがまどろんだ隙をついて川を渡り、黄泉の国に入る。ここで、また音楽を奏でて、黄泉の国の王妃プロセルピーナを感動させ、彼女のとりなしによって黄泉の国の王プルトーネからエウリディーチェを連れ帰る許可を得る。ただし地上に達するまで振り返って妻を見てはならない、という条件が付けられる。

 ふたりは地上へ出発するが、オルフェオはだんだん不安になってくる。エウリディーチェは本当に後ろからついてくるのか。再び、黄泉の国に連れ戻されてしまうのではないか。不安を抱くオルフェオは騒がしい物音に耐えきれず、後ろを振り返ってしまう[注2]。約束は破られた。エウリディーチェは再び黄泉の国にもどり、オルフェオはひとり寂しく地上に帰る。

このお話、妻を愛する夫を描いた感動的な物語なのだろうが、なんとなくすっきりしない。オルフェオはエウリディーチェが忘れられずに黄泉の国に降りていく。妻を愛するあまり、といえば聴こえはいいが、女房がいなければ何もできない、だらしのない男、の感も否めない。そもそも音楽ばかりやっているような男は軟弱である。古代ギリシャでは、青年の育成に体育と音楽が必要で、しかもバランスがとれていなければならない、と考えられていた。体育が勝ると粗暴になり、音楽が勝ると軟弱になる。これは現代にも当てはまる。体育会系は概して粗暴で、バンドで音楽を演奏する若者は概してナヨナヨしている。つまりバランスが悪いのである。

 オルフェオの場合、体育と音楽のバランスがとれていたかどうか。歌で人の心を変えて…というのは現代人にはちょっとまどろっこしいかもしれない。もし、この物語で「体育」が勝るとどうなるだろう。オルフェオ役は、A.シュワルツェネッガー。カロンテなど一撃で倒して舟を奪い、プルトーネと大立ち回りを演じて黄泉の国を大混乱に陥れ、ドサクサにまぎれてグチャグチャいうエウリディーチェをぶん殴って気絶させ、彼女を担いで一気に地上にもどってハッピーエンド。しかしこれではアクション映画にはなっても涙をさそうオペラにはならない。軟弱路線はいけないが、かといって軍事力行使の強硬姿勢ばかりでもダメ。バランスが大切なのだ。

 さてオルフェオはある種のマザコンも感じさせる。ただしオルフェオの場合はテレビ・ドラマの冬彦さんとはちょっと違っていて、現実の母親は存在せず、エウリディーチェが母の代理としての妻だったのだ。ここでエウリディーチェの死は偶発的な事故ではなくて、エウリディーチェがオルフェオに見切りをつけて実家に帰った、別居した、という状況に解釈すると、話がまた違った意味を帯びてくる。

 三途の川を渡るとき、歌でカロンテを説得する、というのはまあ許せるが、自分の力でエウリディーチェを取り戻すのではなく、つまるところオルフェオに母性愛を感じているとおぼしきプロセルピーナのとりなしによって、エウリディーチェを連れ帰るプロセスはパッとしない。けんか別れした妻の実家に行き、両親に頭を下げて、なんとかとりなしてもらうようなものだ。

 日本の既婚男性=夫の中には、表面上は威張っているが、その実、妻がいなければ食事も洗濯も何もできない、つまり基本的な人間としての生活能力のない夫が結構いるようだ。こういうタイプの夫が妻を大事にするのは、妻を愛しているかどうかはさておき、まず妻がいなければ不便だからだろう。一見、妻の方が経済的に「養ってもらっている」ようであっても、妻がいなければ生活できないという意味においては、本当に養ってもらっているのは夫の方だ。

 だから社会構造が変化して、女性が経済的にも自立できるような環境になってくると、この種の基本的な生活能力のない男性の弱点が目立つようになる。おそらくこの状況は今後さらに進行するだろう。そしてカラオケ・スナックでは、毎晩、妻あるいは恋人を失った現代日本のオルフェオたちの歌う嘆きの歌が聴かれることになるのである。


[注1] 物語の細部や、結末には違いがあるものの、古事記にもほぼ同じ物語が見られる。このような類似した現象が起こる場合、以下の3つの可能性がある。

 この物語の場合、プロットがかなり似ているところから1は考えにくい。

 2については、この場合ギリシャから日本へ伝播したか、日本からギリシャへ伝播したか、いずれかの可能性が考えられる。古代ギリシャと古代日本のつながり、という点では確証はないが、落語の題材のいくつかがインド起源であることを考えると、ギリシャから日本への伝播はありえないことではない。

 3の場合は文字文化以前に成立したある種の神話伝承が様々な地域に伝播していき、後にギリシャや日本で文字に書き記されるようになった、ということで、筆者としては、この可能性が高いような気がする。

[注2] この部分、グルックの《オルフェオ》では、不安になるのはエウリディーチェの方。自分を振り返らないオルフェオに対して、「どうしてあなたは私を見ようとしないの?もう私を愛していないの?」とゴネる。そして「もう、これ以上歩けない…」というエウリディーチェの苦しみに耐えきれずにオルフェオが振り向いてしまう、という設定となっている。


Discography:

モンテヴェルディ:歌劇「オルフェオ」 LONDON POLL-1029(LD)

93/6 last modified 02/6


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