bogomil's CD collection: 2002
149-160

※このページは以下の12編のエッセイを収録しています。

※このページの1行の文字数は、ブラウザの表示文字サイズの設定やウインドウ幅に応じて変化します。読みやすい文字サイズ、ウインドウ幅に調整してご覧下さい。


bcc: 149
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのための《トッカータとフーガ ニ短調》?

2002.01

 バッハの《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565(以下「ニ短調トッカータ」)。バッハのオルガン曲の中ではもっともポピュラーといってよく、おそらくパイプオルガン曲の中でも、もっとも広く聴かれている曲だろう。

 さらに冒頭の「ラソラ~~ソファミレ#ドレ」は映画やドラマの悲劇的なシチュエーションのバックに用いられることもしばしばだ。 しかし、bcc: 032(1989)でも言及したように、この曲は実は演奏技術面では意外に簡単で、フーガの対位法的書法も表面的であることなどから、もともとオルガン曲だったかどうか疑わしく、P.ウィリアムズは「原曲ヴィオリン説」を提唱した。

 この曲にはヴァイオリン的な音型がしばしば見られるところから、ウィリアムズはバッハ自身はヴァイオリン用としてこの曲を書き、その後、他の誰かがオルガン用に編曲した可能性もある、と推測したのだ。この曲の現存する筆写譜のひとつには「バッハ氏による」と記されているそうだが、これは原曲の作者を記したものと解釈すればウィリアムズの主張と矛盾しない。

 こんなこともあって、この曲をヴァイオリン独奏用に編曲して演奏する試みも90年代から少しずつ行われるようになってきた。そして2000年にはこの曲のヴァイオリン版のCDがリリースされた*。

 ライナー・ノーツによるとオルガン版ニ短調トッカータをヴァイオリニストのヤープ・シュレーダーが無伴奏ヴァイオリン独奏に編曲し、さらにアンドルー・マンゼが若干手を入れて、バロック・ヴァイオリンで演奏したもの。

 形としては「オルガン曲のヴァイオリン編曲」ということになるが、ウィリアムズの説からすれば原曲がヴァイオリン用でオルガン曲が編曲だから、このシュレーダー/マンゼのヴァイオリン編曲は今は失われてしまった原曲を復元したというべきかもしれない。

 さて、いったいどんな音楽が聴こえてくるのだろう…やはり最初はかなり違和感があった。筆者がこの曲を最初に聴いたのは小学生の頃、ディズニー映画《海底2万マイル》の中で、ネモ船長が潜水艦の中のパイプオルガンでこの曲を弾くシーンだったと思う。

 以後、LP、CD、演奏会で何回となくこの曲を聴いてきたが、ごくたまにブゾーニのピアノ編曲やストコフスキーのオケ編曲を聴くぐらいで、ほとんどはオルガンによる演奏を聴いてきた。 このために特に冒頭などはオルガンのイメージが強く、違和感が生じてしまったのだろう。

 しかし聴き進むうちにこの違和感は少しずつ薄れていき、フーガになるとまったく違和感はなくなって、ヴァイオリン曲として素直に聴けるようになった。ちょうどバッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》を聴いている感じだ。

 このCDを入手してから約1年、折にふれて聴いてきたが、今はだいぶ慣れて、冒頭からヴァイオリン曲として抵抗なく聴けるようになった。いわばウィリアムズの「原曲ヴァイオリン説」を具体的に音で体験したわけだが、確かにもともとこの曲はヴァイオリン用だったのではないかと思えてくる。

 このヴァイオリン編曲を聴いたあとでオルガン版を聴いてみると、これまでは「これこそオルガン曲!」と思っていた音楽がなんとも機械的でぎこちなく、表現が不器用に感じられてしまうから不思議だ。

 このニ短調トッカータ、従来はバッハが若い頃にオルガン用に作曲したという説が有力だった。「若い頃」というのは、前述のようにこの曲が演奏技術面でも書法の面でも、他のバッハのオルガン作品と比べてはっきりと見劣りするため、苦肉の策で「まだ若い頃の習作」ということにしてお茶を濁していたともいえる。

 しかしバッハ自身はヴァイオリン用に作曲、後世の誰かがオルガン用に編曲したとすると、オルガン曲としての完成度の低さがうまく説明できる。

 もっとも可能性はこれだけにとどまらない。ウィリアムズも示唆しているのだが、減七の和音の劇的な表現といった、いささかバッハらしからぬ表面的な効果が用いられているところから「本当にバッハの作?」という疑問も拭えない。

 オルガニストとして著名だったバッハの名を借りた偽作か、バッハの弟子か誰かが作った曲の手書きの楽譜が残されていて、それが(悪意からではなく)「バッハの作だろう」ということになってしまった可能性もある(この曲の現存する筆写譜はモーツァルトの時代以前には遡れないという)。  もしこの曲がバッハの作ではないとしたら…いずれ本当の作曲者が明らかになる日がくるかもしれない。

-----
*Bach: Violin Sonatas. Manze/ Egarr/ Ter Linden (harmonia mundi france HMU 907250-51)

関連記事:bcc: 032「こんな曲、ぼく知らないよ」とバッハいい

↑このページのトップへ


bcc: 150
第5?いや、第10!
---ショスタコーヴィッチ:交響曲第10番

2002.02

 日本人指揮者Oと某有名オケによる「ニューイヤーコンサート」のCDが売れているそうだ。収録されているのはヨハン・シュトラウスなどのいわゆるウインナーワルツ。明るく楽しく新年を祝う恒例行事ということなのだろうが、筆者としては今年はそういう気分になれなかった。

 景気の低迷、同時多発テロなど暗い話題の多かった2001年。2002年もとても楽観できる状勢とは思えなかったからだ。そんなときにワルツを楽しむというのはちょっと現実逃避の感がしてしまう。むしろ昨年の大晦日に某民放局が放送したジルベスター・コンサート*1の方がまだ共感できた。

 定番志向の強い日本では、年末といえばヘンデルのメサイアかベートーヴェンの第9だが、この番組では珍しくショスタコーヴィッチの第5交響曲第4楽章で新年を迎えたのだ。この第4楽章の冒頭はしばらく前にテレビCFで使われたので多少は知られているとはいえ、まだまだ日本ではマイナーな曲。これを敢えて2002年へのカウントダウンとして全曲演奏したことに対しては拍手を送りたい。

 さてドミトリ・ショスタコーヴィッチ(1906-75)は15曲の交響曲を残した。中でももっとも広く知られているのが第5(1937年初演)。《革命》と呼ばれることもあるが、これは俗称で作曲者が付けたタイトルではない。

 ベートーヴェン第5が《運命》と呼ばれるのと似ているが、暗く沈痛な音楽から明るく躍動的な音楽へ変化していく点も共通していて、どちらも「苛酷な運命に打ち勝つ」というイメージで捉えられる。

 ただショスタコーヴィッチ第5が作曲・初演された経緯を見ると、当時のソ連の政治体制が唱道した特異な芸術思想に迎合した面がなきにしもあらずで、旧ソヴィエトや東欧の社会主義体制が崩壊し市場経済へ移行しつつある現在ではいささか時代錯誤の作品ということになる。

 ロシア革命によって誕生したソヴィエト社会主義体制が破綻してしまった*2のだから、「革命」という俗称も今となっては積極的意味を持たないだろう。

 しかし、逆に政治的しがらみから解放された今こそ、この曲を純粋に音楽として評価できるともいえる。「社会主義賛美だからダメ」というのも「社会主義賛美だから素晴らしい」というのも根は同じ。音楽を政治思想の宣伝/反宣伝の道具として利用するとすれば、それは作曲者や音楽に対する侮辱だろう。

 さて筆者としてはショスタコーヴィッチの交響曲の中では第5よりも第10(1953年初演)をお薦めしたい。緊密な構成でまとまりがよく、沈痛さと深刻さの表現はより深い。第1楽章の悲痛な部分などヒーリング効果もありそうだ。

 しかし何よりも大きな違いは、第5では時としていささか通俗的でとりとめのない音楽が聴かれるが、第10ではそのような部分は少なく、全体的により抽象的・普遍的な音楽になっている点にある。

 お薦めCDとしては、丁寧なクルト・ザンデルリンク/BSO(BERLIN Classics、77年)、ダイナミックなカラヤン/BPO(DG、81年)、洗練されたヤルヴィ/SNO(Chandos、88年)などがある。しかし、ベストはムラヴィンスキー/レニングラードフィルによる76年3月3日の録音(Victor VICC-40256)。ライブ録音のため、聴衆の咳がときおり聴こえるが、気迫のこもった緊張感の高い演奏で、第1楽章や終楽章のクライマックスは圧巻だ。

 ところでショスタコーヴィッチ自身はこの曲についてのインタビューに答えて次のように述べたという 。

「熱烈に平和を愛し、戦争への移行に反抗し、地上における人類の使命が破壊ではなく創造にあると考えるような、現代の人々の思想や希望を表現しようとしたものだ」*3

 自国に有利な経済体制は維持しておきながら、その結果生じる経済格差や貧困には冷淡で、貧困のゆえに抑圧的・攻撃的になる国や組織に対しては「ならず者」呼ばわりして軍事力をもって干渉する某大国の指導者に進呈したい言葉だ。

 戦争は常に悪であり「正しい戦争」や「犠牲者のない戦争」はありえない。 これまでいかに多くの非人道的な破壊や迫害が「正義」や「国を守るため」といった大義名分のもとで、あるいは宗教的・民族的不寛容のもとで行われてきたか…今、この曲を聴くと、そんなことを考えたくなる。

-----
*1:12月31日は4世紀の教皇、聖シルウェステル Silvester1世の祝日(「ジルヴェスター」は独語読み)。ここから大晦日の演奏会を「ジルベスターコンサート」と呼ぶようになった。
*2:とはいえ現在の形での市場経済、資本主義経済にも貧富の差の拡大、市場のギャンブル的不安定さ、経済原則優先によるモラルの低下などの弊害があることを忘れてはならないだろう。
*3『最新名曲解説大全集?交響曲 III』(音楽之友社)p.267

↑このページのトップへ


bcc: 151
カストラートによるカストラートのための
---アレグリ:《ミゼレーレ》

2002.03

 今回紹介するのはちょっと変った名曲、グレゴリオ・アレグリ(1582-1652)の合唱曲《ミゼレーレ(我を憐れみたまえ)》。変っているといっても音楽が変っているのではない。曲名だけは有名だが、曲自体はあまり聴かれることがない、という「名曲」だ。

 モーツァルトは1771年ローマを訪れた。その時ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で演奏されたこの曲を耳で聴いて覚えてしまい、楽譜に書き記したと伝えられている。当時、この曲はシスティーナ礼拝堂の聖歌隊に独占され、門外不出とされていた。 そんな「秘曲」を聴いただけで楽譜にすることができた、というのはいかにも神童モーツァルトらしいエピソードだ。それでこの曲、モーツァルトの伝記などで曲名だけはそこそこ知られるようになった。しかしどれだけの人が実際に聴いたことがあるのだろうか…

 アレグリはカストラート(去勢歌手)だった。イタリアでは一時期、オペラ歌手としてカストラートが絶大な人気を得た。映画『カストラート』に描かれているのはこのアイドル的オペラ歌手のカストラートだ。しかしカストラートはオペラだけではなく教会の聖歌隊でも歌っていた。というよりも教会で歌う方が歴史的には古かった。

 キリスト教は性に対しては独特の禁欲的な思想を持っていたため、古くは「邪念を捨てて神に仕えるために」自ら去勢してしまう修道僧が存在した。もしかするとこのような修道僧の中から歌の上手な者が現われ、高い声域のパートを歌うようになったのが「男性ソプラノ歌手」としてのカストラートの起源かもしれない。

 また長い間キリスト教では女性は男性に劣るものとされ、典礼で女性が歌うことが禁止されていたという背景もある(カトリックの教会では、現在でも女性はベールをかぶる。これは女性は汚れているから隠す、という意味あいがあるといわれている)。

 ではカストラートはどのように養成されたのか。おそらく(貧しいが)見込みのある少年、つまり美声で歌っていた少年を変声期前に去勢したと考えられる。アレグリも美しいボーイソプラノだったのだろう。 しかし去勢されて変声しないとしても身体的にはその後も成長するから、声も少年時代そのままというわけにはいかない。

 つまり歌手として成功するかどうかは未知数。一種の賭けといえる。去勢したものの、歌手としてやっていけなくなったらどうするのか。悲劇としかいいようがないが、そういうときには聖歌隊付きの作曲家やオルガニストに転じたかもしれない。

 さて20世紀初頭にいたるまでシスティーナ礼拝堂の聖歌隊ではソプラノをカストラートが歌っていたから、モーツァルトが聴いた《ミゼレーレ》もおそらくカストラートが歌っていたはず。つまりこの曲は「カストラートによる、カストラートのための曲」だったわけだが、ではいったいどんな曲なのか。オックスフォード・カメラータの演奏で聴いてみよう*1(もちろんソプラノは女性が歌っている)。

 この曲は和声的様式(ファミリアーレ様式)によるもので複雑な対位法的部分は聴かれない。シンプルな和声進行の合唱と単声のグレゴリオ聖歌が交互に演奏されていく(この曲は9声部だが、合唱部分は5声で、これに4パートの重唱が加わる)。この録音では約10分だが音楽そのものは反復が多く、歌詞が変わるだけ。しばらく聴いていると退屈してしまう。

 だから、この曲を記憶することはそれほど驚異的なことではない。現在でも幼い頃から適切なソルフェージュ教育を受けた子供なら記憶して楽譜化することはじゅうぶん可能だ。

 もし仮にモーツァルトがもっと複雑で長大な対位法的な合唱曲を記憶できたとしても、それは作曲家としての創造的才能を示すものではない。 極論すれば単に聴音がよくでき暗譜力がすぐれているだけのこと。創造的な知的活動に、ある程度の記憶力は不可欠だろうが、記憶力だけあればいいというものではない。よくテレビのクイズ番組でおそろしく知識豊富な人物が登場するが、彼らが創造的な分野で何かを成し遂げた、という話しはまず聞かない。

 いずれにせよこの《ミゼレーレ》は特にすぐれた曲とはいえないが、カストラートを含む男声合唱で歌われると独特の響きを聴かせたらしい。フランスのモンテスキュー(1689-1755)は以下のように記している。

「私は聖週間の典礼を見た。『ミゼレーレ』を聴けたことが一番嬉しかった。とても奇妙な曲で、去勢者の声はまるでオルガンのようであった」*2

 ここで「とても奇妙な曲」というのは曲そのものが奇妙というのではなく、おそらくカストラートによって歌われる声の響きの特異さ、異様さを指しているのだろう。今となってはもはや聴くことができない響きだが…しかしこのような非人道的なおぞましい響きを筆者は聴いてみたいとは思わない。

-----
*1:『ミゼレーレ』(NAXOS 8.556712)
*2:パトリック・バルビエ著、野村正人訳『カストラートの歴史』筑摩書房(1995)、128ページ。

関連記事:bcc: 036 現代のカストラートはシンセで歌う

↑このページのトップへ


bcc: 152
ツタンカーメンのシェネブ
---マイルス・デイビス:《カインド・オブ・ブルー》

2002.04

 古代エジプト文明は人気がある。ピラミッドに関する話題もテレビ番組や書籍の形で周期的に現われる。従来は専制的な王が民衆を奴隷のようにむち打って働かせ、多大な犠牲者を出してピラミッドを建設した、という説が一般的だったが、最近は「ピラミッド建設は民衆の救済のため」という説も出てきた。

 巨大建築は雇用対策だったとか。どこかの国の公共事業への多大な税金の注入を思わせる話。しかし現代の高層ビルも含めて、巨大建築というものはどうしても政治的権力や宗教的権力あるいは経済力など、強大な力の象徴に見えてしまう。  

 さてエジプトといえば若くして没した王ツタンカーメン(トゥト・アンク・アメン)も有名。彼の墓は王家の谷の一角で奇跡的に数千年の間、誰にも盗掘されず、1925年に考古学者ハワード・カーターによって発見された。

 そこには約3300年前の王のミイラと多くの副葬品が収められていたが、中でも素晴らしいのは王のミイラにかぶせられていた黄金のマスク。現代の感覚で見ても極めて洗練された造形美を持つ。

 一般にはほとんど知られていないが、実はこのツタンカーメンの墓からは音楽に関連する遺物もいくつか発見されている。たとえば拍子木のように打ちならす、手の形をした一対の棒(クラッパー)や、金属円盤を並べたガラガラの一種(シストゥルム)など。

 そして驚異的なのが2本の「シェネブ」。いずれも直管で1本は銀製で長さ58.2 cm、もう1本は銅製で長さ49.4 cm。管の一端は現在の金管楽器のマウスピースのように丸く加工されていて唇を当てても痛くないようになっているし、反対側は漏斗状に広がっていて、これはまず間違いなく現存する最古のトランペットだと考えられる。

 さらに、それぞれ内側全体にぴったりはまる木の栓が付いていた。管が曲がったりつぶれたりするのを防ぐためだろうが、そこまで配慮して墓に収めたというのも興味深い。

 古代エジプトの神殿や墓の壁画にはハープやリュート、各種管楽器や打楽器を演奏している様子、そしてそれに合わせてダンサーが踊っている様子が描かれているから、高度な音楽が発達していたことはわかっているのだが、当時の楽器が出てくるのは極めて珍しい。この意味でツタンカーメンのシェネブは第一級の貴重な音楽史の宝というべきだろう。

 しかし残念ながら現時点では古代エジプトの楽譜や音楽の具体的な響きを再現するための手がかりは皆無なので、この楽器がどんな音楽を演奏したのかはわからない。楽器というよりは信号として単音を出すだけのものだったかもしれない。しかしそれでもツタンカーメンの時代にリップリードの鋭い音が聴かれたことはほぼ確実。

 ちなみにその後、金管楽器は古代ギリシャから古代ローマ時代に至るまで軍隊や野外の見せ物などで広く使われた。しかし古代ローマが滅亡すると冶金技術が失われてしまい、中世ヨーロッパではしばらくは金管楽器は聴かれなかった。

 さてトランペットと聞いて筆者がまずイメージするのはジャズ。ジャズといえば20世紀アメリカの音楽だから古代エジプトとは縁もゆかりもなさそうだが、必ずしもそうではない。エジプトは北アフリカに位置する。そしてジャズのルーツはブルースなどアフリカ系アメリカ人の音楽。

 彼らの故郷であるアフリカ(特に西アフリカ)には現在でも多様な音楽文化が存在し、楽器も多様。前述のシストゥルムも未だに使われているが、これはひょっとすると古代エジプト文明から伝わったものかもしれないし、あるいはアフリカには古代エジプトよりもさらに古い音楽文化が存在し、それが一方では古代エジプト文明に受け継がれ、他方はアフリカの各種部族に受け継がれてきたのかもしれない。なにしろ人類発祥の地とされるオルドバイ渓谷もアフリカにあるのだ。

 こんなことを考えながらマイルス・デイビスの《カインド・オブ。ブルー》*を聴いてみる。奏者の唇が振動して音を出すトランペットは、リード楽器のオーボエやクラあるいはエアリードのフルートよりも声に近い独特の表現と音色を持つ。このアルバムで聴かれるマイルスのトランペットはクールながら時としてどこか悲しい。

 ところで、古代エジプトのミイラが現代に甦って人々を襲うというB級ホラー映画やSF映画がいくつかある。もし筆者がその種の映画をプロデュースするなら、現代に甦ったツタンカーメンがたまたまこのマイルスの演奏を聴き、生前に聴いたあの銀と銅のシェネブの音を思い出して優しい気持ちになるという、ちょっとハートウォーミングなエンディングで終わらせたい。

-----
*マイルス・デイビス「カインド・オブ・ブルー」(SME SRCR 9701)

参考文献:リーサ・マニケ著、松本恵訳『古代エジプトの音楽』(弥呂久)

↑このページのトップへ


bcc: 153
最古のクラシック音楽?
---古代ギリシャの《アポロン賛歌》

2002.05

 「音楽の歴史」とは何か。結論を先にいえば、過去の音楽に関して解読可能な楽譜がなんらかの形で残っていればそれが音楽の歴史、というべきだ。

 一般の歴史というのは文字による記録のことをさす。記録が残っていれば歴史時代、残っていなければ先史時代、と区別されることもある。

これを音楽にあてはめるとどうなるだろうか。たとえば古代エジプト文明やメソポタミア文明では象形文字や楔形文字による記録が残っていて、当時の社会や個人生活についてかなりの程度までわかっている。音楽活動についても言及があり、楽器や合奏の情景を描いた壁画なども残っている。

しかし楽譜が現存しないから肝心カナメの音楽の実態はまったくわからない。メソポタミア起源の一群の楔形文字を楽譜と解釈して旋律を復元した研究もあるが疑問も多く、とても当時の音楽を再現できるとは思えない。したがってたとえ文字による記録が残っている時代であっても、当時の音楽が記録されて残っていなければ、それは音楽的には「先史時代」というべきなのだ。

 楽譜が残っていて当時の音楽が復元できる最古の西洋音楽は古代ギリシャのもの。ただし現存するのは10曲程度で、しかもその多くは短く断片的。古代ギリシャ人が残した音楽理論や音楽思想に関する記述に比べれば、音楽の実例はほんのわずかしか残っていない。

 今回はこの古代ギリシャの音楽のひとつ、《デルポイのアポロン賛歌 第1》*1を紹介しよう。この曲はギリシャ中部パルナソス山麓の都市デルポイにあるアテネ人の遺跡で発見された大理石の壁面に刻まれていたもので、歌詞の上に音高を示す記号が付されている*2。紀元前128年の作と考えられており、ピュティア祭の一環として開催された歌のコンテストで入賞したものだという。

 古代ギリシャでは体育競技(オリンピックのルーツ)だけでなく、音楽の競技も行われていたのだ。

 3種類のCDでこの曲を聴いてみよう。

◎Musique de la Grece Antique. Paniagua/ Atrium Musicae de Madrid
(仏harmonia mundi, HMA 1901015、1976年録音)

 当初LPで発売され、スペインの奇才パニアグワの斬新な解釈と鮮明な録音でオーディオファンにも注目されたアルバム。後にCD化されロングセラーとなったので現在でも入手可能かもしれない(本連載第73回でも紹介)。《アポロン賛歌》はキタラ(木製の共鳴胴に7~8弦を持つ竪琴)とティンパノン(太鼓)などの打楽器と男声コーラスによって歌われる。中間部では奇妙な半音階が聴かれる。

◎Music of Ancient Greece. Christodoulos Halaris
(ORANGM, 2013、録音年不詳)

 ギリシャのハラリスによる詳細な解説と、各曲のオリジナル譜と現代譜が併記された解説書は貴重な資料だ。《アポロン賛歌》はキタラあるいはリュラ(亀の甲羅を共鳴胴とし、7~8弦を持つ)と管楽器の合奏で始まり、後半では朗々としたバリトンソロが歌う。パニアグワとはだいぶ異なる解釈。そもそも旋律からして大きく異なり、半音階も聴かれない。

◎Musique de l'Antiquite Grecque. Anne Belis/ Ensemble Kerylos
(K617, K617069、1996年録音)

 フランスのアンヌ・ベリによる比較的新しい録音。基本的な解釈はパニアグワに近い。《アポロン賛歌》もパニアグワに似ており、半音階も聴かれる。ただここではリュラやキタラは用いられておらず、ティンパノンと男声コーラスで演奏されている(テナーとバスはオクターブで歌っている)。

 さて古代ギリシャ文明は古代ローマ文明に受け継がれる。そして古代ローマではさまざまな音楽が楽しまれた。有名な暴君ネロはリュラを奏でて自作の詩を歌い、しかもサクラを雇って拍手させたといわれるし、戦車(馬車)レースや円形闘技場での剣闘士試合ではトランペット、ホルン、パイプオルガンが演奏された(当時のモザイク画などに描かれている)。

 しかし残念なことにそれらの音楽は楽譜に記録されなかったので、今となってはまったくの謎。ヨーロッパで次に楽譜が登場するのはずっと後のことで8~9世紀のグレゴリオ聖歌のネウマ譜を待たねばならない。

 ところで《アポロン賛歌》の旋律は短音階に近いが導音を持たず、筆者には日本の都節音階に聴こえるところがある。リュラやキタラの音もどこか日本の箏を思わせる。このために筆者には古代ギリシャの彫刻や建築の持つ合理的で洗練された美よりは、むしろ東洋的な、あるいはより原始的なほの暗い情感が感じられる。知らずに聴いたらアジアの民族音楽と思うかも。これはちょっと意外な発見だ。

-----
*1:「アポロン讃歌」とも表記される。
*2:この大理石の写真は、皆川達夫『楽譜の歴史』(music gallery 8、音楽之友社)3ページに掲載されている。

↑このページのトップへ


bcc: 154
知られざるピアノソナタの逸品
---クレメンティ生誕250年

2002.06

 ムツィオ・クレメンティ Muzio Clementi。1752年イタリアのローマに生まれ、1832年イギリスのイーヴシャムで没した。若い頃はピアニストとして活躍し、100曲を超えるソナタを作曲。1796年以降は楽譜出版社やピアノ製造会社も経営した。

 弟子にはフィールド、カルクブレンナー、モシェレス、クラーマーなどがいる。現在ではソナチネや練習曲集《パルナソス山への階梯 Gradus ad Parnassum》が知られている程度で、作曲家としての知名度はさほど高くない。

 さてこのクレメンティに関して、渡邊學爾著『大作曲家の横顔』(丸善ライブラリー018)に以下のようなエピソードが紹介されている。

 1781年12月24日、ウィーンの宮廷でクレメンティとモーツァルトのピアノの競演が行われた。競演というのは、ふたりの奏者に演奏させて、どちらがすぐれているかを競うというもの。人気の演奏家の対決ともなればそれぞれのファンも熱くなり、話題となって盛り上がるのだろう。

 このクレメンティとモーツァルトの競演では自作品の演奏、他人の作品の初見演奏、即興演奏が行われた。このときモーツァルトが何を演奏したのかは不明だが、クレメンティは自作のトッカータop.11とソナタ変ロ長調op.24-2を演奏したという。

 この競演についてクレメンティはモーツァルトを賞賛する感想を弟子に語っているが、モーツァルトはクレメンティを「趣味も感情もほとんど持ち合わせていない単なる機械に過ぎない」とコキおろす手紙を父宛に書いたという。

 クレメンティがいわば大人の反応を示して余裕が感じられるのに対し、モーツァルトはムキになっているように思える。ひょっとすると自信家のモーツァルトは、自分の予想に反してクレメンティの演奏がよかったこと、あるいは聴衆の反応がクレメンティに好意的だったことが不満だったのではないだろうか。

 さらにこの競演には後日談がある。モーツァルトは10年後の1791年に歌劇《魔笛》を作曲するが、この序曲の最初の主題がこの競演でクレメンティが演奏した変ロ長調ソナタの第1楽章の主題にかなり似ているのである。これは明らかにモーツァルトがクレメンティの主題を模倣したことになる。しかし、もしかするとモーツァルトは自分ではそれと気づかずにクレメンティの主題に似た主題を書いてしまったのかも知れない。

 クレメンティとの競演がモーツァルトのプライドを傷つけたとすれば、彼はそれをなるべく忘れようとしたはず。しかしその記憶が潜在意識に追いやられてずっと残っていたとすると…その記憶の中にあった主題が《魔笛》の作曲時に、なんらかのきっかけで甦えり、モーツァルトはそれがクレメンティの主題であることを意識せずに(自分が考え出した主題として)作曲してしまった、という可能性も考えられるのだ。

 「主題の類似」という点で、もうひとつ興味深い曲がある。クレメンティのト短調ソナタop.34-2の第1主題。これがベートーヴェンの交響曲第5番の、あの有名な「運命のモティーフ」にそっくりなのだ。ただしベートーヴェンの方が「ソソソミ♭ー」と同音反復から3度下がるのに対して、クレメンティの方は「レレレソー」と5度下がっている。

 それでもこのクレメンティのソナタ全体の深刻な雰囲気はベートーヴェンの第5に通じるところがある。このソナタは1790年に書かれたクレメンティの交響曲をピアノ用に書き直したものらしい。そしてベートーヴェンの第5は1807~08年に作曲されているから、ここでもプライオリティー(先取権)はクレメンティにある。つまりベートーヴェンがクレメンティのソナタからなんらかのインスピレーションを得た可能性があるということだ。

 とはいえクレメンティをモーツァルトやベートーヴェンとの関連でしか語らなかったり、「モーツァルトやベートーヴェンに比べたら二流さ」というのはアンフェアだ。明治以後、もっぱらドイツ系の音楽を移入してきた日本では、音楽史観もしばしばドイツ偏重のきらいがある。モーツァルトやベートーヴェンを誇りとするドイツ・オーストリアの国民感情からすれば、イタリア生まれでイギリスで活躍したクレメンティは低く評価されて当然だろう。

 しかしここはひとつ先入観や偏見を捨てて虚心にクレメンティのソナタを聴いてみる必要がありそうだ。 そこで今回紹介するのは1999年に歴史的ピアノを使って録音されたクレメンティのソナタのCD*。このディスクにはop.7-3、8-1、25-5、そして前述のop. 34-2の4曲のソナタが収録されている。いずれも本格的なソナタで充実した作品だ。今後はもっと取り上げられるべきだし、またそうなるだろう。

-----
*CLEMENTI Sonata pour pianoforte. Laure Colladant (MANDALA MAN 4970)

↑このページのトップへ


bcc: 155
名ピアニストの条件
---セロニアス・モンク《ラウンド・ミッドナイト》

2002.07

 クラシックの作曲家の中には、生前は演奏家、それも鍵盤楽器の名手として知られていた人が多い。たとえばバッハはオルガンとチェンバロの、モーツァルト、ベートーヴェンはピアノのヴィルトゥオーゾだった。さらに彼らは即興演奏の大家でもあった。残念ながら彼らの即興演奏がどんなものだったか今となっては知る術がないが、現存する彼らの作品の中には、即興演奏されたものを後に楽譜化したと伝えられる曲や、そう推測される曲がある。

 ところでここに2枚のCDがある。ひとつはジョアンナ・マクレガーのピアノによる『アメリカのクラシックピアノ曲集』(Joanna MacGregor: American Piano Classics. LDR LDRCD 1004、1988年録音)。C.アイヴス、E.ガーナー、A.コープランド、G.ガーシュインなど、アメリカの作曲家のピアノ曲が収録されている。

 この中にジャズ・ピアニストとして知られるセロニアス・モンクの代表作《ラウンド・ミッドナイト Round Midnight》がある。解説には「マクレガーの編曲」という注が付されているが、明らかにモンクの演奏を、より正確に言えばモンクの即興演奏をもとにしたものだ。

 まずこの演奏(4分01秒)を聴いてみよう…この曲の複雑なコード進行を的確に捉えたアレンジで、アクセントやリズムも完全にジャズ風。だから何も知らずに聴いたら、クラシックのピアニストではなくてジャズピアニストがアドリブで弾いた演奏といわれても納得してしまう、それほどジャズ的な演奏だ。そしてこの演奏だけを聴いている限りは不満はない。

 もう1枚はモンク自身の演奏を収録した『ベスト・オブ・セロニアス・モンク』(SONY RECORDS SRCR 7215)。最初の曲が《ラウンド・ミッドナイト》。モンクはこの曲をさまざまな楽器編成で何回か録音しているが、ここに収録されているのは1968年11月19日録音のもので、完全なピアノソロの演奏だ(ベース、ドラムスなし)。このモンク自身の演奏(3分50秒)はどうか。

 まず最初の数音を聴いただけで、タッチが明らかに違うことがわかる。何かこう、1音1音が突き刺さるような力強さがある。これに比べると、さっき聴いたマクレガーの演奏はよくも悪くもクラシック的で、上品ではあるがひ弱な感じがしてしまう。彼女の演奏は仕上げは美しいが、どこか華奢。これに対してモンクの演奏は荒削りながら躍動感、生命感にあふれている。

 このふたつの演奏の違いはどこからくるのだろう。まず考えられるのはジャズピアニストとクラシックピアニストの違い。ジャズは曲よりも演奏が重視されるが、クラシックはまず曲があり、そして演奏がある。これは言い換えるなら「即興演奏」対「楽譜による演奏」の違い。

 モンクの演奏は、仮に事前にほとんどの音が確定されていたとしても、基本的に即興演奏だったはず。これに対してマクレガーはおそらくモンクの演奏を耳コピーするような形で楽譜を起こし、それに基づいて演奏したのだろう。ということは、少なくともこの例は「楽譜通りに正確に演奏する」ということが音楽の本質には関係ないこと、むしろ音楽が生気を失い、取り澄まして形骸化した音の羅列に陥る危険性があることを示唆しているといえそうだ。

 ウリ・モルゼン編、芹澤尚子訳『文献に見るピアノ演奏の歴史』(シンフォニア刊)には、チェルニーがベートーヴェンの演奏について書いた興味深い文章がある。

「彼の演奏は即興演奏において非常にすばらしかったのだが、すでに出版された曲の演奏となるとうまくいかないことがしばしばあった。というのは彼には同じ曲を再び練習するための忍耐力がなくて時間をかけなかったからである。」(144)

 ベートーヴェンの本領が即興演奏にあったことがうかがわれるが、さらに同書には、当時ある貴族が書いた次のような文章もある。

「ベートーヴェンのピアノ演奏は正確ではないし、指使いもしばしば間違っており、音の美しさが損なわれていた。しかし、その時に誰が演奏者のことなどを考えることができただろう。人々は完全に彼の楽想の中に吸い込まれてしまった」(143)

 モンクのピアノ演奏の映像がいくつかあるが、クラシックのピアニストが見たら眉をひそめるような、かなり個性的な指使いと手の形で演奏している。また演奏の途中で立ち上がってフラフラと歩き回ることさえある。しかし、そんなことはどうでもいい。音楽がいかに魅力的であるかが問題なのだ。

 未だに旧態依然とした名曲を課題曲として開催される国際コンクール優勝ぐらいしかピアニストの箔付けにならない現代、クラシックの世界にベートーヴェンやモンクのような「名ピアニスト」は存在するのだろうか…

↑このページのトップへ


bcc: 156
「平均律」のルーツを聴く
---フィッシャー:《アリアドネ・ムジカ》

2002.08

 「平均律」といえばバッハの2巻の《平均律クラヴィーア曲集》の代名詞。それぞれ鍵盤上のオクターブの12個の音を主音とする長調と短調の24曲からなる。

 この平均律とは、鍵盤楽器のように個々の音の高さが固定されている楽器を調律するための音律の一種。他にピュタゴラス音律、純正律、中全音律などがある。

 ピュタゴラス音律は完全5度を2:3として音階を得る方法。旋律には適するが3度和声には向かない。純正律は完全5度を2:3、長3度を4:5として音階を得る方法。純正律長音階では主要三和音の長三和音I, IV, Vは音程比が4:5:6となってうなりのないピタッと合った響きとなり、短三和音IIIとVIは10:12:15となって、これもピタッと合う。

 しかしこの純正律、決してすべての和音や音程が「純正」というわけではない。本来なら10:12:15となるべきIIの和音が27:32:40となってかなりうなりを生じてしまう。

 また音階上に2種類の長2度が存在するのも問題だ。たとえば純正律のハ長調では、CーD、F-G、A-Hは8:9の大全音、D-E、G-Aは9:10の小全音となり、音階がギクシャクした感じになってしまう。さらに純正律では調ごとに再調律が必要で、曲中での転調も制約が大きい。

 だからときおり「私たちは純正調で歌っています」という合唱団があるが、それは厳密には「特定の和音をうなりの少ない状態で響かせるように調整している」だけであって、純正律あるいは純正調で歌っているということにはならない。IIの和音を27:32:40で歌ったり大全音と小全音を区別して歌うことは不可能だ。弦楽器や管楽器でも純正律での演奏はまず不可能といってよい。

 さて中全音律(ミーントーン)は完全5度を4回重ねたとき(C→G→D→A→E)にできる長3度(C→E)が4:5になるように、完全5度を2:3よりもわずかに狭くした音律。この音律では、長2度が大全音と小全音の中間の中全音一種になるというメリットが生じる。

 この中全音律とその変種はルネサンスからバロックにかけて鍵盤楽器の音律として広く用いられた。中全音律では使える調の範囲も広がったが、それでも調号のシャープやフラットが2~3個ぐらいまでが限界で、それ以上になると耳ざわりな響きが生じて実用にならなかった。

 そして、この使用可能な調の制約を取り払うために出てきたのが平均律だった。平均律ではオクターブを12個の均等な半音にわけることにより、1回の調律でオクターブの12個の音すべてを主音とする長短調が可能となった。

 引き替えに長3度は4:5から外れてかなりのうなりを生じることとなった。一部の古楽関係者などは「純正音程」にこだわって長3度は4:5が、長三和音は4:5:6がベストとして平均律を否定するが、人間は正確な音程比を聴き取るのではなく、ある一定の範囲内で音程や和音をカテゴリーとして認識するので、多少の音程比のズレは実際上ほとんど意味をなさない。

 「単純な整数比でうなりのない音程が美しい」というのは一見合理的に思えるが、実は人間の聴覚生理や聴覚心理の柔軟性を無視した観念的な純粋主義といえる。

 また一部には「平均律は19世紀以降の産物」という主張もあるが、これも歴史的事実に反する。すでに紀元前4世紀に古代ギリシャのアリストクセノスは「5度は4度と全音、4度は2全音と半音、全音は等しい2半音」として平均律の基本概念を述べており、「音程を決定するのは聴覚であり、数比によってはならない」とさえ述べているのだ。

 下って1581年にはV.ガリレイが半音を17:18(理論値との誤差0.7セント)とするリュートの調弦法を記述し、1585年にはS.ステヴィンが実用上充分な精度(平均誤差0.01セント)で平均律を数学的に記述している。

 その後、大局的には和音の純正さよりも使用できる調の拡大が優先され、平均律が主流となっていく。

 そこで今回紹介するのはK.F.フィッシャー(1665頃-1746)の《アリアドネ・ムジカ Ariadne Musica(音楽のアリアドネ)》(1702)*。平均律のメリット、つまりさまざまな調の可能性を実際の音楽作品に反映させた先駆的な例だ(ただしフィッシャーは24の調すべてを使ってはおらず、19の調で前奏曲とフーガを書いた)。

 そしてバッハはおそらくこのフィッシャーの曲集に触発されて《平均律》を書いたのだ(明らかにアリアドネの主題を借用したとみなせるものがいくつかある)。

 ちなみにアリアドネとはギリシャ神話の中で、クレタ島の迷宮に住む怪物ミノタウロスを倒すために迷宮に入っていくテセウスに、帰り道を迷わないように糸玉を渡した女性。フィッシャーはこれまで使われることのなかった調の迷宮の中で演奏者が迷わないように=困惑しないように、という意味を込めてこのタイトルを付けたのだろう。

-----
*German Organ Music Vol.1 (NAXOS 8.550964)

【追記】

 フィッシャーは以下の調を用いた。

No.
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
調
C:
cis:
d:
D:
Es:
e:
フリギア
e:
E:
f:
F:
No.
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
調
fis:
g:
G:
As:
a:
A:
B:
h:
H:
C:

 つまり、フィッシャーは、12平均律で可能な24調のうち、以下の5つの調を用いていない。

Cis dur / Des dur
dis moll / es moll
Fis dur / Ges dur
gis moll / as moll
b moll / ais moll 

 これらは調号のシャープ、フラットが5〜7個の調で、C durから見ると、もっとも共通音が少ない遠隔調となる。なぜ、フィッシャーがこれらの調を用いなかったのか、いくつかの理由が考えられるが、ひとつには、中全音律系では、これらの調の主和音の完全5度にしわよせがきて、ヴォルフと呼ばれる強いうなりを生じることが挙げられる。

 バッハがフィッシャーが用いなかった調も用いているのは、しわよせのヴォルフを生じない音律、すなわち12平均律、あるいは少なくとも「より12平均律に近い音律」を用いたと考えるのが妥当だろう。

関連ページ:音律入門

↑このページのトップへ


bcc: 157
未来の名曲を育てよう
---ブクステフーデ:組 ハ長調

2002.09

 精神科医、大平健の『豊かさの精神病理』(岩波新書125)。ブランド品にこだわる人たち、モノを媒介とする人間関係を作る人たちの心理について具体的な個人の興味深い例を挙げて書かれているが、この中に極めて印象的な一節がある。

「愛を受けたものがその愛にふさわしくなるのであって、愛にふさわしいものが愛を受けるのではないのです」(p.154)

 逆転の発想というか、因果関係の見直しというか、ちょっと考えさせられてしまう言葉だ。この考え方を音楽に適用するとどうなるだろう。

 たとえば…「広く愛好される曲が愛好されるにふさわしくなるのであって、愛好されるにふさわしい曲が広く愛好されるのではない」。つまり名曲というのはその曲がすぐれているからではなく、広く聴かれるようになったのですぐれているとみなされるようになった、という見方ができる。

 もっとも音楽作品そのものは変化しないから「愛好されるにふさわしくなる」というところはちょっと人間関係とは異なる。

 しかし広く聴かれるようになれば、その曲を取り上げる演奏家も増え、さまざまなアプローチがなされ、演奏の水準も上がっていく。だから、たとえ楽譜の状態での曲は変わらなくても、演奏され、音になった状態でのその曲は「愛好されるにふさわしく変化していく」といえる。

 逆に無名で取り上げられる機会の少ない曲は、その曲のよさが引き出されない状態に留まるということになる。

 ではある曲が名曲となるにはどういうプロセスをたどるのか。まず誰かがその曲を初演する。それを聴いた人が、その曲をよい曲だと思う。その中には演奏家もいて、次の自分のリサイタルで取り上げる。あるいは愛好家が自分で演奏してみよう、と思う。そしてそれを聴いた人がまた「よい曲」と感じて…という連鎖が繰り返されることによって、その曲は広く演奏され、聴かれるようになり、やがて名曲となるのではないか。

 もちろん、その曲を「いい曲」と思わなければ誰も演奏しない。だからやはり「いい曲が名曲になる」つまり「広く聴かれるにふさわしい曲が名曲になる」という考え方も成り立ちそうだが、いわゆるクラシックの名曲を見ると、どうもその曲の価値には関係ないと思われるケースも多い。特に古い時代の音楽ほど、その傾向が強い。

 ある研究家が古い時代の楽譜を調べて、そのうちのいくつかを現代譜に書き直して出版する。このとき、すでにこの研究家の主観や個人的嗜好が曲の選択に介入する。そして出版された楽譜を用いて演奏家が演奏する。ここでもまた演奏家の主観が選曲に影響する。そしてレコード会社にCD化の話を持ち込む。

 プロデューサーは当然、その曲を聴き「これはなかなかいいね」ということでCD化を決定する。ここでもプロデューサーの主観が曲の選択を左右する。こういった個人的な、したがって必ずしも公正とはいえない選択が積み重なってある曲が人気を得たとしても、それは必ずしもその曲がすぐれていることを保証しない。

 名曲は、その曲を名曲として演奏する演奏家と、名曲として聴く聴衆が存在しなければ成り立たない。特に聴衆の存在は大きい。ただし聴衆は気まぐれで流行や評論家の批評に左右されやすい。だからポピュラー音楽の分野では集中的な宣伝によって人為的にブームを作り出すこともできるが、この種のブームは一過性に終わることが多い。

 そこで今回紹介するのは、ブクステフーデ(1636頃-1707)のクラヴィーアのための組曲ハ長調 BuxWV 230。バッハの先輩格にあたるブクステフーデの知名度は低く、これまではオルガン曲が一部で取り上げられる程度だった。しかし彼のクラヴィーア用の組曲や変奏曲もなかなかおもしろい。

 ブクステフーデがこれまであまり知られていなかったのは、後期バロックの作曲家としてバッハがあまりにも大きな存在であったこと、ブクステフーデが大譜表の5線譜ではなく、文字と記号による特殊な楽譜(鍵盤タブラチュア)で自筆譜を残したため、取っつきにくかったこと、などが考えられる。

 このハ長調組曲は技術的にはバッハのフランス組曲程度で、組曲の導入にも適している。楽譜はブライトコプフから出ており*1、CDも最近少しずつリリースされている*2。ブクステフーデのクラヴィーア作品はピアノ教育においても、リサイタルのレパートリーとしても、名曲になる資格がじゅうぶんある。

 これまでの名曲はなんらかの権威によって与えられてきた。しかし未来の名曲は、私たちが自ら主体的に育てていくべきだろう。

-----
*1: Dietrich Buxtehude: Sämtliche Suiten und Variationen. Edition Breitkopf Nr. 8077.
*2: The Buxtehude Project - Vol. II: Harpsichord Music. (Pro Gloria Musicae PGM 105)

↑このページのトップへ


bcc: 158
今年の年末に聴く音楽は?
---トレルリ:《クリスマス協奏曲》

2002.10

 今年(2002年)もいろいろな事件があった。最大のニュースは北朝鮮に拉致された人たちの帰国。10月現在、家族も含めて全員帰国する方向で交渉が進んでいる。しかし拉致された本人はよいとして、子供たちはそれでいいのか。北朝鮮で生まれ育ち、日本語も理解できないとすれば、今突然、日本に連れ戻されることが彼らにとって果たしてよいことなのか、慎重に判断されるべきだ。

 また10月にはモスクワでテロリストによる劇場占拠事件があり、政府側が強行突入の際に使った特殊ガスで多数の犠牲者が出た。いわば救出する側のミスで犠牲になったのだから皮肉な結末だ。全員射殺されたテロリストの中には、ロシア軍の攻撃で夫を失ったチェチェンの女性もいたという。国家は何を守ろうとするのだろうか…。

 明るい話題もあった。タマちゃん騒動や、ノーベル賞受賞。特にサラリーマン田中耕一さんの飾らない人柄にはほのぼのとさせられた。そんな今年も、もう年末。何かとせわしないが、不況の昨今、年末がヒマになったら日本経済も終わり。年末が忙しいのは結構なことだ。

 年末といえばベートーヴェンの第9。いつのまにか恒例行事になってしまった感がある。しかしこれは日本だけの特殊な現象のようで、先日もドイツの放送局が、なぜ日本では年末に第9の演奏会が多いのか、取材に来ていた。本家のドイツでは年末に第9を演奏する習慣はないらしい。

 そんなことを考えながらCDショップをぶらぶらしていたら、パイプオルガン独奏による第9のCDが目にとまった。もしかするとオルガンならではの優しい響きが、たとえば第3楽章の静謐な音楽をオケとは違った味わいで聴かせてくれるかもしれない…かすかな期待を抱いて購入し、聴いてみた。

 が、しかし。1、2、4楽章は論外で、期待した第3楽章もオルガンの荘厳さが裏目に出て硬直した響きになり、強弱変化もぎこちなく失望させられた。

 第9の編曲なら、カツァリスが弾いたリストによるピアノ編曲*1の方がはるかにいい。このピアノ編曲を最初に聴いたときは「やはりオケには及ばないな…」と思った。しかし今回オルガン編曲を聴いてみて、さすがリスト、巧みな編曲でオケの響きを最大限ピアノに移し替えているし、またカツァリスの演奏も大したものだと認識を新たにする結果となった。特にリスト自身が当初ピアノ編曲は不可能、と躊躇したといわれる第4楽章も、ちゃんとピアノ音楽として聴かせてくれる。

 さて年末といえばなんといってもクリスマス。クリスマスにちなんだ音楽もたくさんある。代表格は《聖夜》(きよしこの夜)。これはオーストリアの片田舎の小さな教会の神父さんが作曲したものだ。

 《ジングル・ベル》、《赤鼻のトナカイ》、《ホワイト・クリスマス》もしばしば耳にするが、これらは戦後アメリカから入ってきたもの。いささか商業主義的だが、楽しく心暖まる音楽だ。山下達郎の《クリスマス・イブ》も定着した感がある。

 もちろんクラシックにもクリスマスにちなんだ曲がある。古いものではクリスマスの深夜ミサの冒頭に歌われるグレゴリオ聖歌、入祭唱 Introitus《主は私におおせになられた Dominus dixit ad me》。ペンタトニック風でどこか日本民謡のような懐かしさを感じさせる。

 また中世以来のイギリスのキャロルやフランスのノエルなど、民衆的で素朴な宗教歌も心にしみる。ヘンデルの《メサイア》、バッハの《クリスマス・オラトリオ》は定番だろう。新しいところではデュプレの《古いノエルによる変奏曲》やメシアン《主の降誕》(いずれもオルガン曲)もある。

 このようにクリスマスの音楽もいろいろあるが、ちょっと不思議な味わいを感じさせるのがG.トレルリ(1658-1709)の《クリスマス協奏曲》ト短調 op.8-6。ホグウッド指揮のCD*2で聴いてみよう。

 この曲はバロック時代のトリオソナタの編成を拡大した初期の合奏協奏曲のひとつ。楽章構成は教会ソナタと同じ緩?急?緩?急の4楽章からなるが、このCDでは4楽章合わせても6分弱、というごく短いもの。

 なおこのCDにはコレルリの《クリスマス協奏曲》ト短調 op.6-8も収録されている。これも4楽章からなる合奏協奏曲だが、各楽章ともトレルリより少し長い。第4楽章後半の6/8拍子のパストラーレ(羊飼いの音楽)はのどかな田園的な雰囲気を感じさせる。

 今後もアメリカによるイラク攻撃や北朝鮮の核開発問題など不安材料は多く、来年がどうなるのか、決して楽観できない。こんな年末には、トレルリのクリスマス協奏曲でも聴けば少しは落ち着きを取りもどせそうだ。

 ところで、あなたはこの年末にどんな音楽を聴きたいだろうか。ひょっとするとそれは今年のあなたの心理状態を象徴しているかもしれない。

-----
*1:ベートーヴェン(リスト編曲):交響曲第9番.カツァリス (Teldec WPCS-10383)
*2:クリスマス協奏曲集.ホグウッド (DECCA POCL-4782)

↑このページのトップへ


bcc: 159
共感できるヒーロー
---ベートーヴェン:交響曲第3番《英雄》

2002.11

 2003年は日本のクラシック界にとってどのような年になるのだろうか。不況とデフレが長引けば、収益率の低い演奏会は採算割れで減少するだろう。

 コンサートホールの中には某大学に買収された東京の某ホールのように実質経営破綻したり、そこまでいかなくても開店休業、いわば塩漬けになるところが出てくるだろう…と、未来予測はどうも悲観的になりがち。ここはひとつ温故知新、過去の世紀の「03年」に何が起こったか『クラシック音楽年代記』*1を調べてみよう。

 まずは1603年。モンテヴェルディがマドリガル集第4巻を出版。ルネサンスの音楽からバロックの音楽へ変わる時期だ。

 その百年後、1703年3月には20代のJ.S.バッハがヴァイマール公ヨハン・エルンストの宮廷に弦楽器奏者として採用されるが、11月にはアルンシュタットのボニファツィウス教会のオルガニストに転職している。他方ヴェネツィアでは3月23日に同じく20代のヴィヴァルディがカトリック司祭に叙せられている。以後、このふたりは後期バロックの作曲家として活躍する。

 この後期バロックから古典主義時代を経た1803年4月にはベートーヴェンの第2交響曲と第3ピアノ協奏曲がウィーンで初演される。そして6月から10月にかけて彼は《英雄=エロイカ》として知られる第3交響曲に着手した。また12月にはベルリオーズが誕生している。

 以後の百年はおおざっぱにいってロマン主義の時代。 1903年はロマン主義の終焉と混沌とした20世紀音楽の始まる時期となる。2月11日にはブルックナーの第9交響曲(未完)がウィーンで初演され、22日にはH.ヴォルフがウィーンの精神病院で死去。6~7月頃には R.シュトラウスが《家庭交響曲》の作曲を開始し、夏にはマーラーが第6交響曲の作曲を開始。またこの年にはラヴェルがソナチネの作曲を開始している。ちなみにこの年にはアメリカのライト兄弟が世界初の有人動力飛行を達成した。

 とまあ「03年」の出来事を取り出してみたが、ベートーヴェンの第3交響曲が着手されてから200年というのがひとつ感慨深い。この作品には2つのポイントがある。

 まずこの曲は交響曲という形式を大規模化した最初の作品。1700年ごろにイタリアでオペラの序曲から派生した交響曲=シンフォニアは当初は3楽章制で各楽章は3~4分程度の弦楽合奏の音楽だった。やがてマンハイム、ベルリン、ウィーンで発展し、ハイドン、モーツァルトの交響曲が生まれる。それでも彼らの交響曲とベートーヴェンの第1、第2交響曲は最大30分程度の規模だった。それが第3交響曲は約50分。大きな飛躍、ブレークスルーといってよいだろう。

 第2の点はナポレオンにまつわるエピソード。ベートーヴェンは最初この曲をナポレオンに献呈するつもりだったが、ナポレオンが自ら皇帝となったことに憤慨し、献呈の辞を乱暴に消したといわれている。

 ナポレオンは貴族階級の出身ではなく、砲兵士官からフランスを支配する政治家にまで出世した人物。フランス革命の理念と民主主義に共感していたベートーヴェンにとっては、ナポレオンは文字通り「英雄」だったのだろう。それが一転して自ら皇帝になってしまったのだから失望したのである。

  人々の信望と期待を担った「英雄」も、ひとたび絶対的な権力を掌握するとしばしば豹変して「独裁者」となり、専制的な政治を行い、人々を抑圧する。そしてこの種の人物は自らを美化し、伝説化し、業績を誇張して自己陶酔に陥る。権力は人を堕落させるのだ。

 だからあまりにも完全無欠のスーパー・ヒーローはウソっぽくてシラけてしまう。昨今はむしろ等身大のヒーローが好まれるようだ。たとえば映画《ダイ・ハード》のブルース・ウィリス。状況設定そのものには「ンなバカな…」という荒唐無稽さがある。しかしちょっとドジな主人公がボコボコに痛めつけられながらもギリギリのところで危機を乗り切っていくストーリー展開にはリアリティがあって、けっこう共感できてしまう。

 似たようなことが歴史的な楽器を用いたノリントン指揮、ザ・ロンドン・クラシカルプレイヤーズの演奏する《英雄》交響曲にもいえそうだ*2。この演奏、さっぱりした口当たりでくどさがない。極端に深刻ぶらず、芝居がかっていないという点で、美化されたり神格化されて肥大化した偶像ではなく、いわば等身大で共感できる「英雄」を聴かせてくれる。

-----
*1:Kendall, Allan: The Chronicle of Classical Music. London, 1994.
*2:Beethoven: Symphonies 1-9, Overtures. Roger Norrington/ The London Classical Players (Virgin Classics 7243 5 61943 2 8)

↑このページのトップへ


bcc: 160
「大量破壊兵器」とは何か
---ストラヴィンスキー《春祭》

2002.12

 最近、新聞やテレビニュースで「大量破壊兵器」という言葉を目にしたり耳にすることが多い。「大量に破壊する」ということだから、いわゆる爆弾がまず思い浮かぶが、この言葉はもともと英語の「WMD= Weapons of Mass Destruction」の訳。

 ここで「destruction」の意味がちょっと微妙だ。この言葉には「破壊」だけでなく「大量殺人、絶滅、駆除」という意味がある。だからWMDには人体に有害な細菌やウィルスを用いる生物兵器や、いわゆる毒ガスなどの化学兵器、また放射線を発する兵器も含まれる。

 しかし日本語で「大量破壊」と訳してしまうと「モノを壊す」イメージとなってしまい、「殺人」のイメージは弱くなるから、生物化学兵器はちょっとイメージしにくい。また中性子爆弾などが発する有害な放射線も、建物などは破壊せずに透過して人体にダメージを与えるから「大量破壊」という言葉からはイメージしにくくなる。

 となるとWMDの訳には「大量殺戮兵器」の方が適切だ。もし「殺戮(さつりく)=むごたらしく多くの人を殺すこと」*1がわかりにくいのなら、いっそのこと「大量殺人兵器」とするべきだろう。それを「大量破壊兵器」と訳すのは「人殺し兵器」としての残酷さを隠蔽することになりかねず、適切な訳とはいえない。

 音楽のタイトルにも「不適切な訳」と呼ぶべきものがいくつかある。キリスト教の背景がない日本では、西欧の教会音楽の表題や歌詞の訳は概して一般性がなくてわかりにくいが、中でも比較的知名度があるにもかかわらず、いささか不適切な訳が広まってしまったのがバッハの《主よ、人の望の喜びよ》。

 そもそも「望の喜び」というのが日本語として奇異な感じがする。原題はどうなっているかというと、カンタータ第147番の終曲で冒頭の歌詞はドイツ語で

Jesus bleibt meine Freude, Meines Herzens Trost und Saft,...
イエスは私の喜び、私の心の慰めであり活力…

という意味。表題としては「イエスはわが喜び」とでもするべきだろう。

 ストラヴィンスキーの《春の祭典》も問題だ。原題はフランス語で「Le Sacre du Printemps」。ここでは「sacre」を「祭典」と訳しているのだが、「祭典」というと、昨今は「スポーツの祭典」など、祝祭的なイベントのイメージが強い。しかしこの種の「祭典」はどちらかといえば「フェスティバル=festival」。

 これに対して「sacre」の方は仏和辞典によると「祝典、盛儀、礼賛」という意味だ。ちなみにこの曲の英訳は「The Rite of Spring」。「rite」を英和辞典を引くと「儀式、祭式、儀礼、典礼」となっていて、逆に和英辞典で「祭典」を引くと「festival」となる。

 仏語原題と英訳を照らし合わせて考えても、やはり「春の祭典」という訳にはちょっと問題があるということになるだろう*2

 特にこの曲の第2部は「いけにえ Le sacrifice」と題され、「いけにえの賛美」、「祖先の呼び出し」、「祖先の儀式」、「いけにえの踊り」といった古代宗教や呪術的儀礼を想起させる副題が並ぶ。メータ指揮の録音(1969年)*3を聴いてみると、音楽もまた激しく衝撃的であって、荒々しく原始的な死生観を表現しているように感じられる。

 このような音楽を《春の祭典》と呼ぶのは誤訳とはいえないまでも、筆者にはなんとなく間が抜けた感じがしてしまう。ということで、この曲は《春の祭礼》、《春の祭儀》と呼ぶべきだろう(いずれにせよ略せば「春祭」だ)。

 ところでこの曲、1913年の初演の際に観客が怒り出したというエピソードが伝えられているが、これは音楽が当時としては斬新だっただけではなく、ニジンスキーの振付が型破りだったことにもよるようだ。

 筆者は以前にモダン・バレエの歴史を扱ったドキュメンタリー番組でこの作品の初演の再現映像の一部を見たことがあるが、それは頭にスカーフを巻き、地味なワンピースのような衣装を着た女性が数十人、マラソンのように舞台上を走り回るものだった。

 つまりチャイコフスキーの《白鳥の湖》のような白い衣装でつま先立ちして踊るクラシック・バレエではなかったのだ。だから観客の中にはこの振付(演出)に「人をバカにするな!」と腹を立てた人たちも少なからずいたと思われる*4

 ちなみに後にモーリス・ベジャールが振付けた《春の祭典》は全く異なるアプローチで、人体の柔軟さを強調しつつ極めてエロティックな動作を取り入れ、古代の土俗的祭礼のおどろおどろしさを視覚化している。

-----
*1:『広辞苑』第3版(岩波書店)による。
*2:『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社)、『新英和・和英中辞典』(研究社)による。
*3:ストラヴィンスキー:春の祭典/ペトルーシュカ/8つのミニアチュア。メータ(DECCA UCCD-7062)
*4:ストラヴィンスキー自身もこの初演時の騒動について記述しているが、彼は尊大な人物だったといわれるから、この騒動の原因をもっぱら自分の音楽のユニークさに帰してしまい、振付や演出が斬新だったことを意図的に無視した可能性がある。

↑このページのトップへ


bogomil's CD collection 2002

(C) 2005-2018 Osamu Sakazaki. All rights reserved.