bogomil's CD collection: 2000
125-136

※このページは以下の12編のエッセイを収録しています。

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ピアノ生誕300年記念
---ヨハン・クリスチャン・バッハ:《6曲のソナタ》作品5

2000.01

 心配されたコンピュータの「2000年問題」も大した混乱はなく、無事2000年を迎えることができてまずはひと安心。さてこの2000年は「J.S.バッハ没後250年」にあたり、音楽雑誌の特集などもちらほら見られるが、同時にまた「ピアノ生誕300年」にあたる年でもある。

 最近、妙なニュアンスが付いてしまって使いにくいが「定説によれば」、ピアノを最初に作ったのはイタリアのバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1732)。彼は早ければ1698年に、1700年には確実にピアノの原型を製作していたという。

 もっともこの楽器は最初から「ピアノ」と呼ばれていたわけではない。クリストフォリは「強弱が付くチェンバロ=Gravicembalo col piano et forte」と名付けていた。これが後に「フォルテピアノ」、「ピアノフォルテ」などと呼ばれるようになり、やがて「ピアノ」になったのである。

 またドイツでは「ハンマーフリューゲル」、「ハンマークラヴィーア」という名称も用いられたし、「クラヴィコード」と呼ばれることもあった。クラヴィコードが好まれていたドイツでは、しばしばクラヴィコードのケースにハンマー・アクションを組み込む、という方法で初期のピアノが作られたことによる。これは、後のスクエア・ピアノにつながる。

 クリストフォリ以前にもハンマー・アクションを持つ楽器はいくつか存在したが、彼のものが現代のピアノの直接の先祖であることは、ほぼ間違いなさそうだ。現存するクリストフォリのフォルテピアノは、1720年、1722年、1726年の表記のある3台と、1725年ごろの作と推定される楽器の鍵盤とアクション部分。

 いずれも軽構造で、ハンマーは現在のものよりはるかに小さく、ハンマーヘッドはフェルトではなくて羊皮紙を丸めたようなものだった。音域は、1720年のものが4オクターブ半、他は4オクターブしかない。これは現在のピアノよりはるかに狭いし、当時の大型チェンバロがほぼ5オクターブに達していたことを考えると、クリストフォリのフォルテピアノは小型〜中型の鍵盤楽器だったといえる。

 しばしば「ピアノはチェンバロよりも大きな音が出せるので、チェンバロに取って代わった」といわれるが、フォルテピアノの当初のメリットは大音量が出せることではなく、軽やかな響きで微妙なニュアンスが表現できることだったのだろう。

 さて有名な作曲家ではヘンデルやドメニコ・スカルラッティが、フィレンツェやローマでクリストフォリの楽器に接した可能性がある。しかし残念なことに、彼らの鍵盤作品にフォルテピアノに特化して書かれたと確証できるものは残っていない。

 「フォルテピアノのために」と明記された最初の印刷された曲集は、L.ジュスティーニ(1685-1743)が1732年にフィレンツェで出版したソナタ集といわれている。

 しかしその後も、楽譜を出版するときには「チェンバロまたはフォルテピアノ用」と表記されることが多かった。当時はまだ広くチェンバロが使われていたため、楽譜をより多く売るために「チェンバロでも弾けます」と表記したのである。

 チェンバロで弾いたらとても音楽にならないベートーヴェンの《月光ソナタ》でさえ「チェンバロまたはフォルテピアノ用」として売られていたほどだ。

 ということで、今回は初期の重要なフォルテピアノ作品として、大バッハの息子、ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735-1782)の《チェンバロまたはピアノフォルテのための6曲のソナタ》作品5(1766年出版)のCDを紹介しよう*。

 クリスチャンのソナタは明るく快活で適度に上品。フォルテピアノの特性を活かした古典派ソナタの初期の傑作と呼んでも過言ではない。

 ちなみに彼の音楽は、モーツァルトに多大な影響を及ぼした。クリスチャンはドイツ生まれだがイタリアに渡り、さらにイギリスに渡って一時は絶大な人気を得た。その頃、幼いモーツァルトが父に連れられてイギリスを訪問し、クリスチャンに会っている。そして後にモーツァルトはクリスチャンの作品5のソナタのいくつかを、おそらく自分で演奏するためにピアノ協奏曲に編曲している。

 またクリスチャンの影響はモーツァルトの交響曲にも、少なからず認められる。筆者などクリスチャンのソナタや交響曲を聴くと、しばしばモーツァルトの音楽を連想してしまい、「モーツァルトよりもモーツァルトらしい!」などと、わけのわからないことを考えてしまうほどだ。

 この点からすれば、こと音楽に関する限り、クリスチャンは「大バッハの息子」というよりも「モーツァルトの父」と位置づけるのがふさわしいといえるだろう。

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*J. Chr. Bach - Sonata for Piano Forte op.5
Harald Hoeren
(cpo 999 530-2)

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ことわざもいろいろ
---フランク:ピアノ作品

2000.02

 故事[こじ]ことわざにもいろいろあるが、中には互いに矛盾するようなものもある。たとえば「ヘタの横好き」と「好きこそモノの上手なれ」。前者は、ヘタなくせに飽きもせず何かをすることを皮肉まじりにいうときに使う。これに対して後者は「好きだからこそ努力を続けるので、やがて上手になる」という意味で、はげますときなどに使われる。

 つまり何かを好きでやっている人に対して、ことわざの選び方次第で否定的にも肯定的にも評することができてしまうわけだ。

「栴檀[せんだん]は双葉[ふたば]より芳[かんば]し」という言葉がある。「栴檀」といのは強い芳香を放つ植物の一種でビャクダンとも呼ばれ、扇子に使われたりする。「双葉」とは発芽直後の芽のこと。「芳しい」というのはよい香りがすること。つまりこれは「大モノになる人物は幼いころから並はずれている」という意味だ。

 もっともこの言葉は、子供の他愛ない言動をことさら大げさに取りざたし、その親に対するお世辞やおべっかとして使われることもある。音楽の場合は早期教育の重要性が広く知られ、歴史上の大作曲家や名演奏家でも、モーツァルトのように幼少の頃からその才能を発揮した例も多いので、この言葉がピッタリだ。

 さてこの「栴檀…」に対置されるのは「大器晩成[たいきばんせい]」だろう。「大器」とは鐘などの大きなもので、じっくり時間をかけなければ出来上がらない。これが転じて「大モノは才能が表れるのは遅いが、ゆっくり時間をかけて(年齢を経て)大人物になっていく」という意味で使われる。

 音楽の場合この言葉が当てはまる例は少ないが、まず思いつくのが19世紀フランスのセザール・フランク(1822〜1890)。彼の代表作であるヴァイオリン・ソナタ・イ短調は1886年、交響曲ニ短調は1886〜1888年、オルガン曲《3つのコラール》は1890年に作曲された。いずれも60才を過ぎてからの作ということになる。

 今回はこのフランクのピアノ曲と、オルガン曲のピアノ編曲をポール・クロスリーが演奏したCDを聴いてみよう*1。  収録されているのは以下の5曲。

  1. 《前奏曲、フーガと変奏曲》op.18(1862年。オルガン用の原曲をバウアーがピアノ用に編曲)
  2. 《前奏曲、コラールとフーガ》(1884年)
  3. 《ゆるやかな踊り》(1885年)
  4. 《前奏曲、アリアと終曲》(1886〜87)
  5. 《コラール第3番》(1890年、オルガン用の原曲をクロスリーがピアノ用に編曲)

 (2)〜(5)の4曲はいずれも60才以降の作、(1)でさえ40才の作だ。ピアノのレパートリーとしては(2)と(4)が重要(名称が紛らわしいので要注意)。フランクの作品は大局的には極めてロマンティック。多少、冗長で難解なところがあるとはいえ、60才過ぎてから、これだけ繊細な、ある意味でみずみずしい情感を表現できたというのは驚きだ。

 ところで、フランクには「栴檀…」の面もあったようだ。父親が息子をピアニストとして売り出そうと熱心だったこともあり、若い頃はかなりのヴィルトゥオーゾだったらしい。なにしろ15才でパリ音楽院に入学し、後にコンクールで出題された、そのまま弾くのでさえむずかしい変ホ長調の初見の課題曲を、フランクはハ長調に移調して弾いた、というエピソードが伝えられているほどだ。

 しかし彼はやがて父親と訣別し、個人レッスンや学校で音楽を教えることで生計を立てるようになり、また教会オルガニストを勤めるようになる。「親の無理強いはいけない」といういい教訓といえるかもしれない。

 フランクとえいば、サン・クロティルド教会のオルガンを弾く肖像画が残っていることもあってオルガニストのイメージが強く、「フランクのピアノ曲にはオルガン的な発想がある」と言われることもある。しかし同時にフランクのオルガン曲にはピアノの語法に立脚している面も感じられる。彼のオルガン曲は全般的に足鍵盤の技術はさほど要求されておらず、両手がはるかにむずかしい。またオルガン本来の厳格さや硬質さよりは、柔軟で繊細な響きを特徴としていて、オルガンのレパートリーの中では特異な位置を占めている。

 これまではオルガンで聴いてきた(1)と(5)を、このCDでピアノで聴いてみると、やはりフランクはピアノで音楽を考える作曲家だったのではないか、と思えてくる*2。「三つ子の魂、百まで」ということか…

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*1:フランク:前奏曲、コラールとフーガ他/クロスリー(SONY RECORDS SRCR 9736)。
*2:(1)はフランク自身が後にハルモニウム(リードオルガンの一種)とピアノ用、あるいは2台ピアノ用に編曲している。またクロスリーによれば(5)を含む《3つのコラール》はピアノを使って作曲されたという。

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アマチュア侮るべからず
---ボロディン:交響曲第2番

2000.03

 世の中には、いろいろな分野にプロとアマが存在する。野球やゴルフ、テニスなどのスポーツがまず思い浮かぶが、音楽にもプロとアマがいる。ではプロとアマ、どこが違うのか。

 一般的にはプロ(プロフェッショナル)とは何かを「専門的に行う人」のこと、アマ(アマチュア)とは、何かを「余技や趣味として行う人」のことをいう。もう少しわかりやすい定義としては、ある分野でお金を稼げる人はプロ、そうでない人はアマ、ともいわれる。そして私たちはプロはうまく、アマはヘタ、と思いがちだが、音楽の場合は必ずしもそうとはいえない。

 プロの演奏家はギョーカイの中で不本意な仕事でもこなしていかなければならないし、自分の好きな曲ばかり弾いているわけにもいかない。だから技術的には一定の水準をクリアしていても、しばしば音楽の掘り下げの点で雑だったり、ドライになってしまう。

 これに対して限られた曲に集中できるアマチュア演奏家の場合は、たとえ本業に割かれる時間が多かったとしても、音楽の掘り下げ、あるいは練り上げの点でよいものを作り出すことができる。

 典型的な例が合唱。トラ*1まじりでその場その場をしのいでいくプロ合唱団よりも、長期的に固定メンバーで練習を積み重ねたアマチュア合唱団の方がはるかによい演奏をすることがある。

 ソロも同じ。しばしば一般大学のピアノ・サークルには、音大のピアノ専攻生に勝るとも劣らない音楽を聴かせるアマチュア・ピアニストがいる。

 こうしたことを考え合せると、ある特定の曲の演奏に限っていうならば、必ずしも「プロはうまく、アマはヘタ」とはいえない。そもそもプロの演奏家の存在理由というのは、個々の演奏の完成度というよりは、多くのレパートリーを持ち、初見に強く、強行スケジュールにも対応できる、といった面にある。つまりツブしがきく、ということ。

 そして、くどいようだが、このようなプロの技量と生み出される音楽の質はあくまで別物と考えるべきなのだ。

 さてプロとアマ、作曲家はどうだろう。さすがにクラシックではアマチュア作曲家というのはあまり聞かないが、皆無ではない。有名なところでは「ロシア5人組」。このうち、バラキレフだけは専門的音楽教育を受けたプロだが、あとの4人は他に職業を持っていたのでアマチュアとみなされている。

 ムソルグスキーは、はじめ軍人となったが後に家が没落して下級官吏(公務員)となった。リムスキー=コルサコフは海軍士官、ボロディンは化学、医学を専門とした。そしてキュイは陸軍の技術将校となって築城学を専門とし、工兵大学の教授を務め、最後には陸軍工兵大将となった。

 このように彼らはいわば「二足のわらじ」をはいたわけだが、だからといって彼らの音楽は決して「趣味程度」の二流のレベルではない。ムソルグスキーの《展覧会の絵》、ボロディンの《中央アジアの草原にて》、リムスキー=コルサコフの《シェラザード》は、わが国でも広く知られた名曲だ。

 また、この3人より知名度は低いものの、キュイのピアノ小品や室内楽にはロマン派的な叙情性にあふれた逸品が多く、これらは「陸軍大将」という肩書きからはちょっと想像できないものだ。

 ところで歴史に「もしも」はタブーといわれるが、もし彼らがプロの道を選んだらどうだったろう。作曲に専念して、もっとすぐれた曲を残しただろうか?筆者の答えはノーである。彼らは他に仕事があったからこそ、またおそらくは、その仕事に打ち込む度合いが強ければ強いほど、作曲にも打ち込めたのではないか。

 「お金とヒマがあれば、もっと好きなことに専念できるのに…」というのは庶民なら誰しも思うことだが、実際にそういう状況になったら、単に金と時間の浪費をして無為に過ごしてしまいがち。むしろ経済的にも時間的にも制約のある生活環境の中で、ストレスをうまく活かして創造的エネルギーに転じることによって初めて、いいものが生み出せるのだろう。

 さて前述の4人の中でもとりわけ本業が忙しかったのがボロディン。「作曲するのは短い休暇か病気のときだけ」だったといわれるが、前述の《中央アジアの草原にて》をはじめ、《ダッタン人の踊り》で有名なオペラ《イーゴリ公》、交響曲第1番、第2番など充実した作品を書いている。

 今回は彼の交響曲第2番ロ短調の第1楽章を聴いてみよう*2。とにかく力強く、推進力にあふれた曲。気分もスッキリ、元気がでる。繰り返し登場する主題はひとつのことに打ち込む気迫の現れと解釈することもできそうだ。この曲を聴いていると「忙しいから…できない」などというのは、他ならぬ自分自身への言いワケに過ぎないのだということを痛感させられてしまう。

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*1:主に合唱団、吹奏楽団、管弦楽団で、臨時に雇われる団員のこと。「エキストラ」の略と思われる。
*2:Borodin - Symphonies Nos. 1& 2. Rotterdam Philharmonic Orch. Valery Gergief PHILIPS 422 996-2

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自分は自分、他人にはなれない…
---管弦楽作品のオルガン編曲、どこまで聴けるか

2000.04

 まず結論。パイプオルガン(以下オルガン)で管弦楽作品の編曲を演奏するのはやめた方がいい。

 オルガンの音は一本調子で硬質。レジストレーションや鍵盤交替で強弱が付けられるとはいえ、段階的で融通が効かない。管弦楽の柔軟な響きや微妙なニュアンスはとても表現できないし、トゥッティの壮大さも無理。ためしに管弦楽の名曲をオルガンで演奏したCDをいくつか聴いてみればわかる(いずれも輸入盤。和文タイトルは筆者の訳)。

◎モーツァルト:4手のオルガンのための編曲集
Mozart: Transcriptions for organ 4 hands (BIS-CD-418)  

 モーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》。第1楽章の出だしのユニゾンは可愛らしいが、第5小節からの低音弦の8分音符の連打がうるさい。第2、3楽章は18世紀に流行した音楽時計のようなイメージでまあなんとか聴けるが、いささか退屈。第4楽章は重く、弦楽器の軽快さが出てこない。次に交響曲第40番。この第1楽章も、低音弦の動きが単調。また弦楽器による短調の旋律の切なさ、物悲しさが出てこない。第2楽章以降はアイネクと同じだが、もったりした第4楽章は最悪。この2曲、いずれも原曲の弦合奏あるいはオケ版のノックアウト勝ち。

◎オルガン音楽の達人 Virtuoso Organ Music (MDG 320 0818-2)

 スメタナの《モルダウ(ヴルタヴァ)》。序奏と最初の主題はなんとか聴ける。しかし「森、狩猟のラッパ」はちょっと物足りない。「田舎の踊り」はまあいいとして、夜の情景の部分は平板。そしてクライマックスの「聖ヨハネの急流」で完全に破綻する。これまた原曲オケ版のノックアウト勝ち。

◎編曲者の技法 The Transcriber's Art (GOTHIC G 49054)

 シベリウスの《フィンランディア》。最初と中間部のゆっくりした部分はかなり聴かせる。しかし長調に転じてアップテンポになるといささか滑稽。ラストはシラけてしまう。部分的には聴かせるところがあるのでオルガン編曲も完敗とはいえないが、筆者としては原曲のテクニカル・ノックアウト勝ち、としたい。

◎展覧会の絵 Pictures at an Exhibition (DORIAN DOR-99117)

 時代が下ってムソルグスキーの《展覧会の絵》(原曲はピアノだが、ここではラヴェルのオケ編曲との比較)。この曲のオルガン版はいくつかあるが、今回聴くのはフランスの作曲家・オルガニストのジャン・ギユーのアレンジと演奏。各曲が短いこともあって、オルガンの単調さにヘキエキすることはない。うーん、これはイケルかも、と思ったのだが、最後の《キエフの大門》はやはり無理だった。

 オルガンではオケ版の華やかさ、輝かしさ、壮麗さが出てこない。オルガン版もよく持ちこたえたが最後の最後でオケ版にノックアウトされてしまった感じ。

 次ぎにストラヴィンスキーの《ペトルーシュカからの3つの舞曲》。これはそもそも原曲のオケ版からして荒々しく硬質な響きを前面に出しているから、オルガン向きといえなくもない。しかし全般的にリズムは不揃いだし、第3曲のように長くなってくると変化に乏しく、ちょっとくどい。筆者としてはやはり原曲オケ版あるいはピアノ版の「判定勝ち」としたい。

 とまあいろいろ聴いてみたが、オルガン編曲はほとんどの場合、原曲には及ばない。ただこの種の編曲モノには、かつてはそれなりの存在理由があった。

 19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスやアメリカのコンサートホールや市民ホールにはしばしばオルガンが設置されたが、これは本来のオルガン曲を演奏するだけではなく、人気のある管弦楽曲などを(編曲して)演奏するためだった。オルガンなら演奏者がひとりで済むので、オケよりも安上がりで手軽だったからだ。

 また当時は家庭で管弦楽曲のピアノ編曲、それも連弾用の編曲を演奏することが流行した。理由は単純明解。当時はレコードもラジオもCDもなかったから、ある曲を聴きたくなったら自分で演奏するしかなかったのだ。つまり管弦楽曲のオルガン編曲やピアノ編曲は、いわば「代用品」として演奏され、聴かれたのである。

 しかし現在ではオーディオ装置が発達しているので、管弦楽曲が聴きたければオケが演奏したCDを聴けばよい。なにもわざわざオルガン編曲を聴く必要はないのだ。  オルガンは「オルガンを熟知した作曲家」が「オルガンの特性を活かして作曲した曲」を演奏するべきであって、管弦楽の編曲を演奏したら、つまりオケのマネをしたら勝ち目はない。

 私たちも自分自身を向上させる努力はするべきだが、しかし安易に他人のマネをするようなことはやめておいた方が賢明、ということだろう。

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歌は抽象化されていく
---フォスターの歌曲をめぐって

2000.05

 「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がある。大衆的な歌は時代や世相を反映する、逆に世相の方が歌によって方向づけられることもある、という意味だ。ただし、この種の「歌」は純粋に音楽な面で評価されるというよりは、歌詞が何を歌っているか、そのメッセージ性が重視されることが多い。

 しかしやがてその歌は当初の社会的背景から離れていき、歌詞の本来の意味は忘れられ、あるいは別の歌詞に替えられ、そして最後には歌詞から切り離されて純粋な旋律だけが受け継がれていく…

 たとえば卒業式の定番《蛍の光》。もともとはスコットランドの詩人で歌曲作曲家だったロバート・バーンズ(1759〜96)の作で、原題は《遠い昔 Auld Lang Syne》。旧友をしのぶ大衆的な歌だ。今でもスコットランドではパーティーの最後に歌われることがあり、「別れの歌」といえなくもない。

 しかし日本で歌われている《蛍の光》は中国の故事を取り入れた歌詞に置き換えられていて、バーンズの当初の歌詞とはだいぶ趣きが異なる。

 同じくバーンズ作の《麦畑》の場合はもっと極端。原詞は「誰かさんと誰かさんが麦畑で…」というもので、ちょっと学校で教えられるような内容ではない。そのため日本の音楽の教科書では「夕空晴れて秋風吹き…」という無難な歌詞に変更され《故郷の空》という題になった。

 さてバーンズの延長線上に位置するのがアメリカのスティーブン・フォスター(1826〜1864)。彼は短い生涯に約200曲の歌曲を残し、そのいくつかはアメリカ全土でヒットした。今回はこのフォスターの名曲をロジェー・ワーグナー合唱団の無伴奏合唱で聴いてみよう*。

 《おおスザンナ》(1848出版)、《草競馬》(1850出版)は軽快でコミカル。これらは当時アメリカで各地を巡業していたミンストレル・ショーのために作曲された。このショーは、白人が顔を黒く塗って黒人に扮し、歌ったり踊ったりするというもの(当時は黒人が舞台に立つことはできなかったし、黒人が白人とともに観客となることもなかったそうだ)。

 ちょっとしんみりした《故郷の人々(スワニー河)》(1851)や《オールド・ブラック・ジョー》(1860)もミンストレル・ショー向けのものだそうだが、このショーの位置づけはむづかしい。無難な説としては、黒人の音楽の躍動的なリズム感や自由な即興性に触発された白人の音楽家や芸人が、黒人の音楽や舞踏を模倣し、それが白人の観客に受けた、という見方があるが、どうも話しはそれほど単純ではないようだ。

 中村とうようは『ポピュラー音楽の世紀』(岩波新書636)の中で次のように述べている。

 「…南北戦争で奴隷が自由になると、白人のうち低所得層ほど黒人と仕事を取り合うことになり反感と蔑視を強める。そんな社会の動きの中で出現したのが、お人好しだが知恵の足りない黒人の紋切り型を舞台で演じて客を笑わせるミンストレル・ショウである。つまりこれは、差別の対象である黒人をいっしょに笑いものにすることで、演じる側と観客たちが互いに人種偏見を確認しあい、差別システムを正当化するための芸能だったわけだ。」(同書6ページ)

 中村によれば、《おおスザンナ》や《草競馬》の歌詞には黒人を示唆する語句はないが、これらの曲を歌ったり踊ったりするとき、黒人風の発音やしぐさをおもしろおかしく真似て笑いを取った、ということらしい。

 《オールド・ブラック・ジョー》にしても、綿畑(綿花の栽培は黒人を労働力として発達した南部の主要産業)で働いていた黒人の老人の気持ちを歌った心にしみる歌だが、これも歌詞を黒人風の発音で歌ったりすれば、物悲しい中にもクスグリが入って、ある意味で黒人を笑いものにするような雰囲気になったのかもしれない。

 しかし現代のロジェー・ワーグナー合唱団が歌うこれらの曲には、こうした人種差別的要素は感じられず、いわば「洗練された英語の合唱曲」になっている。つまり純粋な音楽として抽象化の段階に入っているわけだ。

 ちなみに同じフォスターの歌曲でも、晩年の作であるロマンティックな《夢見る佳人》(1864出版)や《金髪のジェニー》(1854出版)はミンストレル・ショー向けではなく、純粋な歌曲として作曲されたといわれる。

 いずれにせよ、これらフォスターの歌曲は、時間の経過とともに作曲当時のもろもろの社会的背景や「しがらみ」から自由になっていき、抽象化・普遍化されて、おそらく数百年後には歌詞からも自由になって旋律だけが受け継がれていくことになるだろう。

 ちょうど400年前のイギリスの流行歌だった《グリーン・スリーブス》が、現在はメロディーだけ広く知られているように。

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*ザ・ベスト・オブ・ロジェー・ワーグナー合唱団 (東芝EMI TOCE-3090)

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作曲者自身の演奏がベスト?
----「歴史的演奏様式」の落とし穴

2000.06

 今年は「バッハ没後250年」。そのためもあってか、ふだんはほとんどクラシックの話題など取り上げない一般マスメディアにも、バッハ関連の話題が時おり顔を出している。

 過日も「バッハのブランデンブルグ協奏曲をフレンチ・ピッチで演奏する」という記事が新聞に出ていた。このフレンチ・ピッチというのは18世紀フランスのヴェルサイユ宮廷などで用いられていたもので、a'=392 Hz。現在の標準ピッチであるa'=440 Hzよりも、ほぼ全音低い。

 さて、フレンチ・ピッチを採用する根拠は「当時、バッハもこのピッチで演奏していたから」ということらしいが、ここには「作曲された当時の演奏」あるいは「作曲者が意図した演奏」をめざす、という古楽特有の発想がある。

 そのために当時の楽器を使う、当時の音律を用いる、当時の編成に準ずる、当時の発声法を使う、当時の演奏解釈に従う、となっていく。フレンチ・ピッチの採用も、このような古楽的アプローチのひとつなのだ。

 確かに、バッハの作品を、作曲された当時の形で再現することには、学術的意義だけではなく、聴いて楽しむ音楽としても大きな意味がある。これまで古楽器によるバッハの演奏にはa'=440 Hzよりもほぼ半音低いa'=415 Hzが広く用いられてきたが、フレンチ・ピッチはさらに半音低くなり、人によっては従来の演奏よりもかなり渋く感じられることだろう。

 またピッチが変わると、弦楽器やチェンバロでは弦の張力が変わり、楽器本体にかかる力が変わるため、音色も微妙に変化し、全体の響きも変わってくる。ピッチが変わることは、単に音の絶対的な高さが変わるだけではないのだ。

 ただし、過度な「歴史的正統性」の追及は、時として音楽不在のペダンティズム(衒学趣味)に陥る。たとえば「バッハはa'=392 Hzで演奏するべきであって、440 Hzは間違いである」となったら行き過ぎだろう。早い話が、現在の私たちが聴いて楽しむことを目的とするなら、a'=392Hzのヘタクソな演奏よりもa'=440 Hzの上手な演奏を取る、ということもアリなのだから。

 ところで、鍵盤奏者、指揮者のトン・コープマンは、かつて「私はバッハのように演奏する」という趣旨の発言をしている。そんなことが可能なのだろうか。

 まず当たり前のことだが、バッハはすでに亡くなっているので彼のナマ演奏を聴くことは不可能。バッハの時代には録音装置が存在しなかったから、バッハの演奏の録音を聴くことも不可能。バッハの自筆譜やら、当時の文献資料やらをいくら調べたとしても、演奏というのはほんのちょっとした微妙な違いが大きく影響するので、彼の演奏を再現あるいは復元することも不可能。

 したがって「私はバッハのように弾く」などというのはコープマンの演奏家としての自負を示す文学的表現以上のものではない。

 では、もし仮にバッハ自身の演奏が聴けたとしたら、それは、最良の演奏だろうか?バッハはチェンバロやオルガンの巨匠として知られていた人物。だからその彼が演奏する彼自身のオルガン曲やクラヴィーア曲は、その作品のもっともすぐれた演奏である、と考えたくなる。確かにバッハの生きていた時点では、彼の演奏が彼の作品の最良の演奏だった可能性は極めて高い。

 しかし、今、現在の私たちにとって、当時のバッハの演奏が最良かどうかはまったく別問題。なぜなら、現在の私たちは、「バッハ以後」を知っているからだ。

 多くの人がモーツァルトを聴き、ベートーヴェンを聴き、リスト、ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、バルトーク、プロコフィエフ、メシアンを聴いていて、さらに多くの演奏家による、実に多種多彩なバッハ演奏を聴いている。つまり私たちは、もはやバッハの当時のように彼の音楽を聴くことはできないのだ。

 この問題を具体的に考えるために、近現代の作曲家の自作自演をいくつか聴いてみよう。ラヴェルの弾いた《ソナチネ》、ストラヴィンスキーが指揮した《春の祭典》、あるいはバルトークが演奏した《ミクロコスモス》*。

 これらを聴けば、作曲者自身の演奏といえども、あくまでその曲の演奏の可能性のひとつであって、なんら特権的な意味を持つものではないことが納得できるはずだ。  

 というわけで、メフィストフェレスがやってきて「バッハ本人の演奏を聴かせてあげましょうか?」と猫なで声を出したとしても、筆者はキッパリ断ることにしている。

 別に魂を取られるのが心配なのではない。バッハ本人の演奏を聴いて「なーんだ、こんなものなの???」とガッカリするのが目に見えているからだ。

 などと偉そうなことを書いてしまったが、かくいう筆者も、もしメフィストに「リストのベストの演奏を聴かせてあげましょうか?」と持ちかけられたら…ちょっと心が動いてしまうかも知れない。

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*Discography: Bartok: Contrasts/ Mikrokosmos Masterworks (Portrait MPK 47676)

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円形競技場、剣闘士、そしてオルガン
---レスピーギ:《ローマの祭り》

2000.07

 映画《グラディエイター》(リドリー・スコット監督)を見た。舞台は紀元2世紀の古代ローマ帝国。主人公は有能な将軍マクシムス。彼は年老いた皇帝マルクス・アウレリウスから秘かに後継者になるようにとの依頼を受ける。しかしその直後に皇帝の実子コモドゥスが帝位につくために皇帝を暗殺し、マクシムスの処刑を命じる。マクシムスは辛うじて生きながらえるものの、奴隷として剣闘士の一座に買われる…

 「グラディエイター」とはこの剣闘士のこと。古代ローマでは円形競技場(ローマのコロッセオが有名)に多くの観客を集め、そこで剣闘士たちが真剣で戦った。負けた剣闘士は、戦いぶりがよければ命を助けられることもあったが、そうでなければその場でトドメをさされた。この場合、敗者を生かすか殺すかは主催者が観客の反応を見て判断を下したという。

 いささか血なまぐさい話だが、現代でいえばプロボクシングの試合のようなもの。ヘッドギアを付けないボクシングが危険なことは判っていても、プロボクシングではなんの防護対策もしない。この背景には生命を賭けての危険な試合の緊張感が好まれるという一面もありそうだ。

 また剣闘士試合と並んで、古代ローマでは二頭立てあるいは四頭立ての戦闘用の馬車(戦車)が長円形のコースを周回する戦車競走も人気があった。こちらは現代でいえば、さしずめF1レースということになるだろう。

 これら剣闘士試合や戦車競走は、そもそもは宗教的な儀式や祝祭に付随して発生したものだが、やがて純粋な娯楽イベントとなっていく。

 そしてしばしば政治家や皇帝は人気取りのために私費を投じてこの種のイベントを大々的に開催した。つまりローマ市民には娯楽が必要であり、支配者は適切な娯楽を提供することで支持を得ることができたのだ。現在は政治家個人がこの種のイベントを開催することはまずないが、大スタジアムでの競技会は健在。プロ野球やサッカーの試合の大観衆の興奮は、古代ローマ時代に各地に建設された円形競技場にその起源を見ることができそうだ。

 ところでキリスト教はもともとはユダヤ教から派生してイスラエルで生まれた宗教だが、古代ローマ帝国で大きく発展した。しかし当初はいわば「新興宗教」だったため、ローマの伝統的宗教や皇帝崇拝に敵対するものとして、いわば悪しき宗教とみなされて迫害されることもしばしばだった。時には円形競技場でキリスト教徒をライオンなどの猛獣に襲わせたり、剣闘士と戦わせたりしたらしい。

 しかしキリスト教徒は聖書の「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という言葉に象徴されるように非暴力主義、無抵抗主義だったので、剣闘士と戦おうとせず、祈ったり聖歌を歌ったりするだけ。そして、ただただ殺されていったので観客は大いに怒った、というエピソードさえ伝えられている(ただし、これは後のキリスト教の著述家がローマを悪者にするために、ことさら話を残酷にした可能性もある)。

 レスピーギの管弦楽作品《ローマの祭り》の第1曲《円形競技場の祭り Circenses》*は、皇帝ネロ(在位54〜68年)治世下でのキリスト教徒迫害をおそろしくリアルに描いている。金管のファンファーレ、檻の中のライオン、アリーナに引き出されるキリスト教徒、襲いかかるライオン、興奮する観客…といったイメージが多彩な管弦楽によって繰り広げられ、ラストにはやや唐突にオルガンが鳴り響く。

 しかしなぜ、ここでオルガンなのか。キリスト教を象徴する楽器としてオルガンが用いられているのだろうか。いや、どうもそうではないようだ。

 パイプオルガンは紀元前3世紀ごろには「ヒュドラウリス」という名称で存在しており、古代ギリシャ・ローマでは大きな音が出る楽器として野外競技を盛り上げるために使われたりした。剣闘士試合にも金管楽器のファンファーレなど、華やかな音楽が付きものだったようで、1世紀ごろのモザイク画には、剣闘士が戦っている横でトランペット、ホルンとパイプオルガンを演奏している情景が描かれたものがある。

 つまりもし古代ローマでオルガンが鳴り響いたとすれば、それはキリスト教徒迫害のイベントを盛り上げるために使われた、ということになるのだ。

 キリスト教は313年にはローマ帝国公認の宗教となり、380年には国教となる。さらに西ローマ帝国が滅亡した後もキリスト教は衰えず、ヨーロッパの支配的な宗教となり、各地に大聖堂が建設されるようになる。

 そしてやがて、かつてはキリスト教徒迫害のイベントを盛り上げたオルガンが、キリスト教会の楽器として大きく発展することになる。なんとも皮肉な歴史のなりゆき、といわざるをえない。

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*レスピーギ:ローマ三部作/ガッティ (RCA BVCC-37274)

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オペラに見る女性像
---《エウリディーチェ》《トスカ》《ルル》おまけの《エイリアン》

2000.08

 現存する最古のオペラは J.ペーリ(1561-1633)の《エウリディーチェ》といわれ、今からちょうど400年前、1600年10月6日にイタリアのフィレンツェで、フランス王アンリ4世とメディチ家のマリア(マリー・ド・メディシス)の結婚式を祝うために初演された。

 物語は死んだ妻エウリディーチェを求めて冥界に降りていくオルフェオの話。「地上に戻るまで、振り返ってはならない」という条件付きで妻を連れ帰ることになるが、この約束を破ってしまい、再びエウリディーチェは冥界にもどる…しかしこれでは結婚式にはふさわしくないので、ハッピーエンドにして上演したといわれている。

 この物語、モンテヴェルディやグルックもオペラ化し、20世紀にはジャン・コクトーの映画《オルフェ》(1950年)やブラジルのリオのカーニバルを舞台にした映画《黒いオルフェ》(1959年)に受け継がれ、さらに最近は後者のリメーク版も作られている。

 ギリシャ神話以来の長い歴史をもつ物語といえるが(古事記にもほぼ同じ物語がある)、それだけにこの物語では女性=エウリディーチェは主体性に乏しい。オルフェオと共に地上に帰るのも、自分の意志というよりは、オルフェオの熱意と理解ある冥界の王の配慮による。しかも途中で「なぜ私を見てくれないの?」などとゴネるところはいささか思慮に欠ける。つまるところ、ここで描かれている女性像は「男性に従属する、愚かな存在」といえる。

 さて今から100年前、1900年1月14日にはローマでプッチーニのオペラ《トスカ》*が初演された。秘密警察に捕えられた恋人マリオを救うために、トスカは単身、長官スカルピア男爵を訪れ、取引きを持ちかける。もっとも、トスカはワイロでカタを付けようと思っていたのだが、スカルピアは「金なんかいらない、あなたがほしい」と典型的なセクハラ。

 ここで追いつめられたトスカが嘆いて歌うのが有名なアリア《歌に生き、愛に生き》だ。その歌詞はつまるところ「私はよいことをし、お祈りもしてきたのに、なんでこんな目にあわされるのですか、神様!」というもの。

 そしてこのアリアを歌い終わったトスカはスカルピアの要求を受け入れる決心をする。スカルピアは、明朝マリオの銃殺は形だけ行い、銃には実弾ではなく空包を使うので死ぬことはない、死んだフリをすれば、死体として運び出されるから、一緒に逃げればよい、と段取りをつけ、トスカに迫る。しかしトスカはやはり屈辱を受けることに耐えられず、果物ナイフでスカルピアを刺し殺してしまう。そして牢のマリオに計画を伝え、朝を待つ…。

 翌朝、処刑場にマリオが引き出され、銃殺隊が発砲する。トスカが駆け寄ってみるとスカルピアの話はウソで、銃には実弾が込められていてマリオは死んでいる。さらにスカルピアの死を知った部下がトスカを探し始める。トスカは塔の上から身を投げて幕。

 とまあ、このオペラではヒロインはエウリディーチェよりははるかに積極的に行動している。しかし行動してはみたものの、スカルピアのワル知恵を見抜けず、彼の話を信用し、またその権威に頼った結果、自分もマリオも救えなかったということだから、なまじ世間知らずの女性が出しゃばるとロクなことにならない、という教訓にもなりかねない。ここに描かれる女性像も依然として「男性にはおよばない愚かな存在」ということになりそうだ。

 その後、20世紀に書かれたオペラの中では、ベルクの《ルル》(1937年初演、未完)が悪女をヒロインとしていて、一見、新しい女性像を提示しているかのように見える。しかし男性の関心の対象としての枠内に閉じこめられた「魅力的な女性」が自分に言い寄る男性をもてあそぶ、という点では、ルルは「男に尽くす、優しい女性」という男にとっての理想を裏返しにしただけであり、つまるところ男性支配を前提とする女性像をくつがえすところまではいっていない。

 ところで、もし21世紀に女性を主人公とするオペラが書かれるとしたら、どういうストーリーになるだろう。すでに映画では多様な女性像が提示されるようになってきているが、変ったところでは《エイリアン》(1979)と《エイリアン2》(1986)でシガニー・ウィーバーが演じるリプリーがおもしろい。

 特に《2》でのリプリーの描き方は従来の冒険活劇にありがちな、受動的にヒーロー=男性の助けを待つだけの女性のイメージを打ち壊すもの。彼女は冷静に状況を分析し、淡々と問題を解決しながら、執拗に攻撃してくるエイリアンたちに果敢に立ち向かい、最後には少女、同僚の男性、アンドロイドを救う。

 一時代前なら男性が演じたであろう役どころを女性に設定しているところがユニークだ(もっとも、続く《エイリアン3、4》ではリプリーの描き方はまた違った方向に変化している)。

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*Puccini: Tosca. Tebaldi, Del Monaco, London (LONDON 411 871-2)

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巧みな話術には気をつけよう
---《フィガロ》と《三角帽子》

2000.09

 モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》とファリャのバレエ音楽《三角帽子》。この2つには共通のモティーフがある。それは「貴族や役人といった権力を持つ人物が、自分の雇い人や領民の婚約者あるいは妻に横恋慕する」というもの。

 まず《フィガロ》。モーツァルトはダ・ポンテの脚本に作曲したが、原作はフランスのボーマルシェの戯曲。物語の発端は、アルマヴィヴァ伯爵が妻のメイドのシュザンヌ(スザンナ)に思いを寄せ、シュザンヌと従僕のフィガロの結婚話を聞き及んで、秘かにシュザンヌに誘いをかけるというものだ。現在の感覚からすると、結婚が決まった女性に誘いをかけるのはいささか奇異に思えるが、ここには「初夜権」という背景がある。

 これは封建制社会に広く見られるもので、領主(貴族)、族長、僧侶などの身分の高い支配階級の男性が、自分の配下の領民が結婚するときに、その新妻と初夜をともにできる、というとんでもない権利だ。ただし、ヨーロッパの場合は、これは結婚に課せられた一種の税だったという説もある。つまり、結婚する男は、領主にいくばくかの金額を支払って「初夜権」を買い取らなけれならなかった、ということ。

 しかし、《フィガロ》では、この初夜権は税の一種ではなく、領主の特権として描かれている。「伯爵様は、以前に放棄したこの権利を、再び行使しようと考えておられる…」というセリフがあるからだ。そして《フィガロ》の原作では、フィガロとシュザンヌが、この初夜権に象徴される当時の支配階級・貴族階級の横暴を機知でかわしていく。つまりこれは啓蒙思想と自由主義思想が発展しつつあった時代に、旧来の身分制度や支配階級を風刺し、批判する物語なのだ。

 ところが原作に比べると、モーツァルトのオペラでは社会批判的な要素が後退している。これは当時、まだオーストリアには皇帝が君臨する貴族社会が存在し、露骨に貴族を笑いモノにするような内容は上演禁止になる可能性があったからだといわれている。

 モーツァルトは新しい思想に共感し、権力者を批判するためにこのオペラを書いたという説もあるが、批判的な要素はセリフの面でも音楽の面でもあまり明確に出てこないから、モーツァルトは単に自分の音楽が活かされ、大衆受けするテーマならなんでもいい、と考えていただけではないか。

 いずれにせよ、モーツァルトがこの物語に上品で軽妙な音楽を与えたことによって、登場人物のキャラクターは原作とは微妙に異なるものとなっている。特に妻に飽きて若い女性を追い回す好色で傲慢な領主であるはずの伯爵が、品のよい紳士で、ちょっと浮気心を起こすものの、最後には妻とヨリをもどす善良な夫に感じられてしまい、ヘタをすれば「ズル賢いスザンナやフィガロに手玉に取られた伯爵様はおかわいそう」などということにもなりかねない。

 声のいいバリトン歌手が伯爵を演じたら、なおさら同情を誘いそうだ。音楽によって話が変質する…「モーツァルトの音楽は偉大」といえなくもないが、筆者はちょっとスッキリしない。

 これは「何を語るか」ではなくて「どう語るか」が大きな影響力を持つ、ということを示している。昔も今も、宗教家や政治家といえば話術が巧みだ。今では庶民的な娯楽になっている落語も、もともとは話の巧みな僧が仏教の説話をおもしろおかしく庶民に語り聞かせるところから始まったという。だから落語の物語にはインド起源のものもあるそうだ。

 また政治家の中には、しばしば巧みな話術で笑いをとりつつ演説をするタイプの人物がいて、地元ではけっこう人気があったりする。ところが彼らの演説を活字にしたら、あまり面白くない。場合によっては、もっともらしいキーワードがちりばめられているだけで、論理的に何も言っていないに等しいことさえある。

 それでも演説会場で直接聞くと、けっこう感動してしまったりするのだが、これは人間が演説の論理的な内容よりも、話術や身振りといった、より直接的な視覚的・聴覚的刺激に影響されやすい、ということを示している。

 話術の巧みさとは内容や言葉の組み立て方ではなくて、声の質=音色、適度な抑揚=旋律、適度な口調と間合い=リズムとテンポ、といった音楽的な要素によるもの。だから話術さえ巧みなら、どんなに偏った考えでも、おそろしい思想でも人々に信じこませることができてしまう。

 同様に、音楽を巧みに使えば、言葉だけではなかなか受け入れられないような特定の観念や思想を受け入れやすくすることもできそうだ。

 多くの人は「初夜権」の非人道性を意識することなくモーツァルトの《フィガロ》を観るだろう。しかし、だからといって完全に音楽だけを抽象的に聴くわけではなく、なんとなく物語も意識しながら聴いていくはず。その結果「伯爵はホントはいい人」などというイメージを抱くとすれば、それは「セクハラ容認」に通じる、といったら言い過ぎか。

 《フィガロ》に比べると、粉屋の妻にしつこくいい寄って大恥をかかされる好色な代官を描いたファリャのバレエ音楽《三角帽子》*はずっと話がスッキリしている。ここでは代官が同情される余地はまったくない。音楽も素朴で荒削り。気どったところがなくストレートでダイナミック。話術は巧みでもゴマカシのない誠実な演説、といったところだ。

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*ファリャ:三角帽子/恋は魔術師 デュトワOSM (LONDON POCL-5086)

【追記】

・モーツァルトの《フィガロの結婚》の原作はボーマルシェの戯曲『セビリアの理髪師または無益な用心』、『狂おしき一日、またはフィガロの結婚』、『もうひとりのタルチュフ、または罪ある母』の3部作のひとつ。このうち『セビリアの理髪師』は後にロッシーニがオペラ化して広く知られている。『罪ある母』は、伯爵夫人ロジーヌ(ロジーナ)がシェリュバン(ケルビーノ) の子を産んだ後日談。この『罪ある母』はボーマルシェの3部作の中では評価が低いが、D. ミヨーが1964年にオペラ化しており、またコリリアーノJohn Corigliano(1938-)がオペラ《ヴェルサイユの幽霊 Ghost's of Versaille》(1991年初演)に組み込んでいる。

・ボーマルシェ『フィガロの結婚』の日本語訳は、グーテンベルク21からテキストファイルを420円でダウンロードできる。
http://www.gutenberg21.co.jp/figaro.htm

last modified: 2018.10.05

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プレクトラム=弦をはじくツメ
---2000年にリリースされたチェンバロのCD3点を聴く

2000.10

◎J.S.バッハ・アルバム-3 ゴルトベルク変奏曲・中野振一郎(DENON COCQ-83424-25)

 このCDはある意味で貴重。なぜなら歴史的チェンバロ(18世紀以前の楽器に基づくもので、このCDでは「ピリオド楽器」と呼んでいる)による演奏(全曲)に加え、最近はほとんど使用されることがなくなった、いわゆるモダンチェンバロ(19世紀末に当時のピアノの技術を用いて復興されたチェンバロ)による演奏(全曲)も収録されているからだ(2枚組)。

 今から30〜40年前にはラルフ・カークパトリックやカール・リヒターがノイペルトNeupert社のモダンチェンバロを用いてバッハを録音していた。筆者が最初に聴いたチェンバロによるゴルトベルクも、カークパトリックがノイペルトを用いて録音したLPだった。しかしその後、歴史的チェンバロを用いた演奏が増え、やがてモダンチェンバロは消えていった。

 ところがこのCDではモダンチェンバロの方はまさにこのノイペルトの「ヴィヴァルディ」モデルが用いられている。現代のデジタル録音ではどんな響きになるのだろうか。多少期待して聴いてみたが、やはり今となっては…特に速いテンポでガシャガシャした音になる。また「ヒンヒン」という奇妙な付帯音がかすかに聴こえる点も気になる。

 モダンチェンバロのサンプルとしては価値があるが、敢えて2回分収録するだけの意味があるのか、筆者としては疑問だ。

◎曽根麻矢子/バッハ:フランス組曲 (エラート WPCS-10600/1)

 《フランス組曲》といえば、現在のピアノのレパートリーとしては初級〜中級にランクされているが、きちんと演奏するのはけっこうむずかしい。チェンバロによる録音ではユゲット・ドレフュス、キース・ジャレットなどの名演があるが、曽根も文句のつけようのない完璧なテクニックでこの曲を仕上げている(デイヴィッド・レイ製作の歴史的チェンバロを使用)。

 ただアルマンドは概して典雅に弾いているものの、クーラントやジーグではしばしば攻撃的。このスピードに爽快感を覚える人も多いだろうが、筆者には速すぎてチェンバロの響きのよい面が後退しているように思える。

 また細かいことだが、第5番のジーグの第29小節上声の最後の音(通常はF)を曽根はどうもFisで弾いているように聴こえる。ひょっとするとここがFisになっている異稿があるのかもしれないが、前後にFがでてくるのでちょっと奇異な感じがする。

◎SATOH Masahiko:Plectrumプレクトラム (BAJ Records BJCD-0015)

 ジャズ・ピアニスト佐藤允彦が歴史的チェンバロ(久保田彰製作)を用いて演奏したユニークなCD。当初、筆者はこのCDにはあまり期待していなかった。ジャズ向きの鍵盤楽器といえばまずピアノ、次いでハモンド・オルガンぐらいで、個々の音に強弱が付かないチェンバロは単調・平板になってジャズには不向きと考えていたからだ。

 もっともチェンバロを使ったジャズとしては、スイスのチェンバリストA.フィッシャーがデユーク・エリントンに委嘱した《バラの花のひとひら》という味のある小品もあったが、さて、佐藤はどうチェンバロを弾くのだろう…

 これはもう「目からウロコ」としかいいようがない。久々に戦慄を覚える演奏を聴いた。第1曲の佐藤のオリジナル《ODE TO SUNDOWN》から引き込まれてしまう。巧みなアーティキュレーションによってメロディーラインにメリハリがつき、単調さを感じさせない。適度のアルペジョによってコードの響きが和らげられることもあれば、逆に同時に打鍵することで打楽器的な効果がでることもある。

 《APRIL IN PARIS - APRIL LOVE》の中間部ではフレミッシュ・チェンバロ独特のよく伸びる中低音域でベースラインが弾かれ、ピアノとはまた違った低音の躍動感がでている。そしてその上に輝かしく鋭いチェンバロの高音がめまぐるしく展開するのだが、決して耳ざわりな響きにはなっていない。

 ボサノバ・ナンバーA.C.ジョビンの《NO MORE BLUES (Chega De Saudade)》では弦にスエードを当てて余韻を短くするバフ・ストップが用いられ、ギター風のタッチでまた新鮮な響きとなっている。懐かしい《CARAVAN》のアドリブはまさに圧巻。

 それにしてもチェンバロでこのような音楽が成り立つとはちょっと信じられないぐらいだ。佐藤のセンスには脱帽せざるをえない。クラシック、ジャズといったジャンルを超えて、才能ある演奏家は瞬時にチェンバロの長所と短所を把握し、その特性を活かした演奏ができてしまうのだろう。

 楽器も明快な音で反応がよく、佐藤の演奏をしっかり受け止めている。久しぶりに「みごとなチェンバロの演奏」を聴いた。しかもこれは20世紀の今だからこそ聴けるもの。できることならバッハに聴かせてやりたい演奏だ。

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bcc: 135
バッハの「未完成」
---《フーガの技法》BWV 1080

2000.11

 フーガのさまざまな可能性を追求したバッハの《フーガの技法》Die Kunst der Fuge BWV 1080は、どちらかといえば「知られざる名曲」だろう。これは、ひとつにはバッハが大譜表ではなく、声部ごとに5線を分けたスコアの形で書いたことによる。このためオルガン、チェンバロ、ピアノで演奏されたり、各種楽器の合奏や室内楽で演奏されてきたためにジャンルがハッキリしなくなってしまったのだ。

 bcc: 006(1995年)ではヴァルヒャ(オルガン)、グールド(オルガン、前半9曲のみ)、コチシュ(ピアノ)の3人の演奏を取り上げたが、今回はその後、筆者が入手したCDをいくつか紹介しよう。

 とはいえ、この曲集、なにぶん曲数が多いので、比較のために「B-A-C-H」つまり「変ロ・イ・ハ・ロ」の主題が出てくる長大な未完のフーガ(BWV 1080/19)を聴いてみることにする。

 このフーガは二分音符と全音符主体のゆったりした主題による第1部(1〜115小節)、8分音符主体の主題による第2部(115〜193小節)、「B-A-C-H」の主題による第3部(193〜233小節)からなる。そして最後に、これまで出てきた3つの主題が同時に組み合わされ、テノールが「レミレドシラシレ」と歌ったところで中断している(239小節)。

 これは死を目前にしたバッハが、ここまで作曲したものの、これ以上続けることができずに死去したからだというエピソードが伝えられている。この話の真偽はともかく、バッハがこの曲を完成させなかったことは事実で、ここで音楽がフッととぎれると、何ともいえない余韻を感じさせる(ヴァルヒャやモロニーが補作して完成させた録音もあるが、今回紹介するCDでは、いずれも未完のまま終わっている)。

◎フェルツマン Bach: Art of Fugue/ Feltzman.
MUSICMASTERS CLASSICS 01612-67173-2

 ピアノ・ソロ。第1部ではテンポは遅めで音も弱く、一音一音が丁寧に弾かれ、この曲の深刻な側面が強調される。第2部ではややテンポが速くなり、また音量も大きくなる。第3部の「B-A-C-H」の主題は再び弱音となり、テンポも抑えられ、どこか諦観のようなものを感じさせる。13分03秒は人によっては長く感じられるかもしれないが、これはこれでこの曲をよく掘り下げた演奏だ。1996年録音。

◎ケラー弦楽四重奏団 J.S. Bach: Die Kunst der Fuge/ Keller Quartett.
ECM NEW SERIES POCC-1049

 ビブラートが控えめで、ヴィオール・コンソートを思わせる古楽的音色の演奏だ。しかし表現の幅は大きいので、モダン楽器を使用しているのだろう。第1部の終結部の盛り上がりは弦楽四重奏ならでは。第2部は弦楽器特有のアーティキュレーションで主題が提示される。第3部はごくごく弱い音で、禁欲的な響きで始まるが、次第に高揚する。10分32秒、1997年録音。

◎アムステルダム・ルッキ・スターダスト・カルテットAmsterdam Loeki Stardust Quartet/ The Art of Fugue.
Channel Classics CCS 12698

 リコーダー(ブロックフレーテ)の四重奏による演奏。筆者は、この演奏はパイプオルガンに近い響きだろうと予想していた。パイプオルガンの響きの基本となるフルー管は、原理的にはリコーダーと同じだからだ。

 しかしこの予想はちょっと甘かった。パイプオルガンとはまったく違う。パイプオルガンでは、一定の風圧でパイプが鳴るため、ピッチは一定、音の持続も一定だ。しかしリコーダーの演奏では、人間の呼吸によってピッチが微妙に変化し、音が持続するときも途中からわずかにビブラートがかかったりして決して一定ではない。あくまで人間の呼吸による演奏だ。

 ただ、この「人間的」であることが、この曲にふさわしいかどうかは別問題。鍵盤楽器の演奏に慣れていると、ちょっと表情づけが過剰に思えてしまう。しかしリコーダーという楽器でここまで緊張感のある演奏ができる、という点では非常に興味深い。テンポは全般的に速め。8分44秒、1998年録音。

 今回この3種類の演奏を聴いてみて、筆者にはフェルツマンのピアノがもっともこの曲をよく表現しているように感じられた。弦楽四重奏やリコーダー四重奏では確かに表情は豊かだが、この曲の対位法的構造がややデフォルメされてしまうように感じられる。この曲の一切の無駄を排した究極の音の構成美は、現代のピアノのクールな響きに合っている。

 最近は、バッハはこの曲をチェンバロ用に書いたという説が有力なようだが、仮にそうだったとしてもそれはあくまでバッハの時代のこと。作品は書かれた直後に作曲家の手を離れる。現代の私たちがバッハの意図に縛られる必要はない。今後、この曲集はピアノのレパートリーとして、もっと取り上げられてよいだろう。

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bcc: 136
クラヴィコードの静かな世界
---バッハ:パルティータ第6番

2000.12

 クラヴィコードという鍵盤楽器がある。キーの奥に真鍮製のタンジェントとよばれる金属片が上向きに植え込まれていて、キーをたたくと、このタンジェントが上昇して弦(通常、複弦)をたたくという、極めてシンプルなアクションを持つ。打鍵の強さによって、ごくわずかに音に強弱を付けることができるので、ピアノ以前には唯一、個々の音にニュアンスを付けることのできる鍵盤楽器だった。

 ただしタンジェントが弦をたたくといっても、待機位置から弦までの距離が5ミリほどしかないので、キーのストロークは浅くタッチのコントロールは非常にむずかしい。筆者は数年間、自宅にクラヴィコードを借りて弾いたことがあるが、タッチの点ではピアノともチェンバロとも違ったむずかしさを感じた。

 基本的にはピアノに近い指のコントロールを要求される楽器といってよいのだが、キータッチによっては音が出なかったりする。加えて音量は鍵盤楽器としては極めて小さく、ギターよりも弱く感じられるほど。このためクラヴィコードは基本的に個人で楽しむ楽器であり、人に聴かせる場合には音量的な面でかなり制約される楽器だ。

 筆者が自宅で弾いたときも、昼間はあまりよい響きにはならず、だいたい夜10時以降、周囲が静かになったときにようやく満足できる響きになったほどだ(逆に、深夜に演奏しても周囲に迷惑をかけることはまったくない)。とにかく地味。ピアノ、オルガン、チェンバロに比べてはるかに知名度が低いのも納得できる。

 しかしこの楽器、18世紀中頃までドイツでは広く用いられたし、バッハもこの楽器の親密さと微妙な表現を好んだといわれている。また、当時は足鍵盤付きのクラヴィコードも作られたが、これはオルガニストの練習用だったようだ(当時はオルガン演奏の際にはふいごを動かして送風する必要があり、演奏者は送風をしてくれる人を頼まなければならなかったので、そうそう気軽に練習できなかったようだ)。

 確かにクラヴィコードにはチェンバロのような華やかさはないし、ピアノのようなダイナミックさもない。しかしそのかわりに独特のピアニッシモの世界があり、これはクラヴィコードでしか味わえない小宇宙といってもよいだろう。

 今回はバッハのクラヴィーアのためのパルティータ第6番ホ短調 BWV 830を綿谷優子がクラヴィコードで演奏した珍しいCDを聴いてみよう*1

 この曲、現在はピアノで弾かれることが多いが、バッハ自身はチェンバロあるいはクラヴィコードで演奏したと考えられている。

(1)トッカータ:中間に充実したフーガを含み、トッカータ→フーガ→トッカータという3部構成となっている。この曲の悲劇的な、ちょっと感傷的な性格がよく出ている(8分39秒)。

(2)アルマンド:やや遅めのテンポで淡々と流れていく。クラヴィコードの微妙なニュアンスが飽きさせない(2分38秒)*2

(3)コレンテ:ピアノやチェンバロではしばしばおそろしく速く演奏されるが、綿谷は丁寧に演奏していて、落ち着いて聴くことができる。筆者としてはあまり速い演奏にはついていけないので、この演奏はなかなか好感が持てる(2分55秒)。

(4)エール:コレンテが遅めだったのとは対照的に速めのテンポ(1分18秒)。

(5)サラバンド:バッハの鍵盤用サラバンドの中でももっとも複雑で、表現のむずかしいものといってよいだろう。時としてこの曲は非常に重々しく遅いテンポで演奏されるが、ここでは、それほど遅くはない(4分12秒)。

(6)テンポ・ディ・ガヴォット:この曲としては優雅な雰囲気(1分07秒)。

(7)ジーグ:バッハの鍵盤用ジーグの中ではもっとも充実したもののひとつといえるだろう。チェンバロではときとしてガシャガシャした感じになるが、クラヴィコードではずっとやさしい感じだ(3分15秒)。

 全般的にピアノともチェンバロとも違った静かな響きで、非常に繊細な音楽に仕上がっている。特に(1)や(7)はチェンバロによる演奏にありがちな硬さあるいは荒々しさを感じさせない。心を落ち着かせてくれる演奏だ。

 ちなみにクラヴィコードのCDを聴くときには、再生音量はごくごく弱くすること。キーのゴトゴトいう音が耳に付くようだと、音量が強すぎる。21世紀の日本、クラヴィコードが昼間でも気持ちよく演奏できるような、騒音のない静かな環境を目指したいものだ。

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*1:Johann Sebastian and Carl Philip Emanuel Bach. Yuko Wataya, clavichord (Rene Gailly CD87 139)。他に、C.P.E.バッハのホ短調ソナタWq 58、イ長調ロンド Wq 58、 ヴュルテンベルク・ソナタ Wq 49/1が収録されている。
*2:アルマンド以降の舞曲楽章はすべて前半・後半を反復せずに演奏している。

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bogomil's CD collection 2000

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