bogomil's CD collection: 005

リスト:後期ピアノ作品
Liszt: Late piano works

 楽譜に書かれた記号は音楽そのものではない。その記号に基づいて、演奏家が具体的に音にして初めて音楽となる。しかしこの「具体的に音にする」やり方は多種多様。それは5線記譜法に欠落している情報が多いからだ。

 音色に関する情報もそのひとつ。音色は演奏に際しては極めて重要な役割を担っている。これは、すべての音楽が具体的に音にならなければならない以上、避けて通ることができない問題だ。音色が変わると曲の印象まで変わってしまう、ということも少なくない。そして時として音の構成としての音楽を聴く、というよりも音色を聴くことが主な関心事になることさえ起こってくる。

 たとえば、クラシックに限らずすべての歌手はまず音色、つまり声の質で評価される。その結果、好きな歌手の声が聴ければどんな曲が歌われようがお構いなしということになり、たとえば演歌歌手がワンマン・ショーで自分の持ち歌以外の曲を多少下手に歌っても、その歌手の熱烈なファンは喜ぶのである。

 最近テレビ番組で、日本の若手男性オペラ歌手Nがジャズのスタンダード・ナンバーを歌っているのを耳にした。英語の発音も表現もリズム感も、アメリカのプロ歌手に比べればお話にならないレベルだが、それでも「彼の声」を聴きたいファンには受けるのかもしれない。器楽の場合でも、管楽器や弦楽器など比較的原始的な、つまり人間の身体が発音に直接かかわるような楽器の場合は演奏者固有の音色が大きな意味を持つ。

 鍵盤楽器ではやや事情が異なってくる。特にオルガンやチェンバロは、個々の楽器固有の音色が演奏の質を大きく左右する。これらの楽器の音色は楽器ごとにほぼ固定されており、演奏者が音色を変化させる余地がほとんどない。これらの楽器の場合、質の悪い楽器では何を演奏してもうるおいがなくやがて神経が疲れてくるが、質のよい楽器なら何時間聴いても飽きないし、疲れない。オルガンの場合など、何を演奏しようがその楽器の個性(あるいは没個性)ばかりが耳につく、という場合もある。

 これがピアノになると、同じ鍵盤楽器でも弾き方によって音色が微妙に異なり、演奏者の個性がかなりの程度、音色を左右する。しかしそれでも声楽や管弦楽器に比べれば楽器固有の音色の制約は大きい。鍵盤作品の演奏に際しては楽器の選択が重要な意味を持つのだ。

 鍵盤作品では原則として「作曲家の意図した楽器が、その曲の本来の姿を示す」といってよいだろう。これはすぐれた鍵盤音楽の作曲家がいずれもその楽器の名演奏家であったことを考えれば納得がいく。バッハはチェンバロやオルガンの欠点を最小限に抑え、長所を活かすべく作曲し、自ら演奏したのであり、同様にショパンやリストはピアノの欠点を最小限に抑え、長所を活かすべく作曲し、自ら演奏したのである。

 この音色の問題を具体的に考えるために、今回はリストの愛用したチッカリング社のピアノでリストの作品を録音したCDを聴いてみよう*。このCDには、

といった、比較的よく知られている曲と、

といったリストの後期の作品が収録されている(リストが没したのは1886年)。

 いずれも、現代のピアノとは微妙に異なる響きで聴かれるが、全体として音域ごとに音色と余韻が異なるために、旋律と伴奏のコントラストが明確になっている。また高音の余韻がわずかに短いせいか、音楽が素朴に感じられるから不思議だ。中でも《灰色の雲》や《悲しみのゴンドラ》の持つ内省的な雰囲気は適度に柔らかい響きで再現されていて、落ち着いて聴くことができる。

 そもそもリストの後期の作品には華麗な(あるいは空虚な)名人芸の誇示は見られないし、ピアノを叩き壊してしまうような激しさもない。それがチッカリングのピアノの響きによく合うのかもしれない。

 筆者はリストの作品を現代のピアノで演奏することを否定するものではない。しかしえてして現代のピアニストが現代のピアノで弾くリストは音がきつくなりがちで、また華やかさが過剰になりがち。これは単に演奏解釈や演奏テクニックの問題によるだけではなく、現代のピアノの音色、音質によるところも大きい。現代のピアニストがリストをどう演奏しても自由だし、また現代の私たちがどういう演奏を好もうと、それは個人の自由だ。しかしリスト自身がどのような響きを意図していたのかを、ひとつの基準として理解しておくことも決して無駄ではないだろう。


*Discography:

Liszt: Piano Works - Dag Acgatz plays Liszt's own piano
BIS-CD-244
国内発売元:キング・インターナショナル

94/5 last modified 03/07


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